第2章 「マイ・ウエイ」へのシナトラの軌跡(1)アイドルスターの誕生
1960年代半ば、中学生だった私は毎月『スイングジャーナル』誌で、マイルス・デイヴィスやビル・エヴァンス、そして『至上の愛』を発表したばかりのジョン・コルトレーンの記事を貪るように読んでいた。前衛ジャズが最高潮に達していた時期である。
その潮流とは対照的に、当時、大橋巨泉氏はボーカル歌手の動向を論じ、シナトラの変遷についても触れていた。1950年代初頭に声を壊し苦悩したシナトラが、映画『地上より永遠に』を契機に奇跡的な復活を遂げ、かつての甘いクルーナー唱法から、現在のような「ざらついた声」を基調とする表現豊かな歌唱へと転換し、大成功を収めたという内容だった。私はそこで初めて、シナトラがビング・クロスビーやペリー・コモのような、透き通った美声の系譜に属していた時代があったことを知ったのである。
その記憶を確かめるべく、2017年のコンピレーション・アルバム『Love In Triplicate – Sinatra Sings Great American Songbook』を聴き返してみた。1940年から1965年までの録音が収められたこの盤を聴き比べると、1953年から1956年にかけて、彼の歌唱が明らかに変化していることが確認できる。すなわち、シナトラはまず純粋なクルーナーとして栄光をつかみ、その後に現在のような歌唱スタイルを確立したのである。
フランク・シナトラの物語は、1930年代後半、ニュージャージー州のイタリア系移民の家庭から始まる。ビング・クロスビーに憧れた青年は、ハリー・ジェイムス楽団を経て、1940年に当時最高峰のトミー・ドーシー楽団に参加した。
ここで彼は、ドーシーのトロンボーン奏法から、フレーズの途中で息を継がずに長く歌い続けるボイスコントロール手法を学び、滑らかに歌いつなぐ「ロング・レガート」という独自の唱法を確立する。1940年に録音された『I'll
Never Smile Again』は12週間チャート1位を記録する大ヒットとなり、彼は一躍、女学生(ボビー・ソクサー)たちを熱狂させる史上初のアイドル・スターとなった。
しかし、この現象の背景に「マイク技術の発展」というテクノロジーの進化が重要な役割を果たしていたことは、あまり知られていない。1930年代半ばから普及したRCA製やノイマン製の指向性がありナチュラルで温かみのある録音特性を持つリボンマイクの登場が、歌手の歌い方を根底から変えたのである。
リボンマイクが登場する前、歌手は大編成のブラス楽器による圧倒的な音量に対応するため、大声を張り上げて歌う「シャウト」唱法を強いられていた。しかし、微細な音を拾い上げるリボンマイクの普及は、まるで恋人に耳打ちするような親密な「クルーナー(ささやき)唱法」を可能にした。
マイクに近づくことで低音が強調される特性(近接効果)を利用し、ため息や微かなビブラートといった感情の機微を聴衆の耳元に直接届けられるようになったのである。これによって、ビング・クロスビーはリラックスした会話調の歌い方を開拓し、メッセージを伝えるだけでなく、人の心、感情を伝える音楽芸術への道を切り拓いた。
さらに、シナトラはマイクを単なる拡声器ではなく、自らの「楽器の一部」として巧みに操った。大きな声を出すときはマイクから離れ、繊細な表現ではマイクに接するように歌うことで、驚異的な強弱の幅(ダイナミックレンジ)を表現に組み込むことに成功した。
マイクによって歌手の声が増幅されるだけでなく、表現力が豊かになった結果、音楽の主役は「オーケストラ(楽団)」から「個人の声(歌手)」へと移行した。1942年、シナトラがドーシー楽団から独立した背景には、この技術革新によって「楽団の専属歌手」という枠組みが崩れ、歌手が中心となるポピュラー音楽の大きな転換を彼が察知していたからに違いない。
シナトラはトミー・ドーシーから学んだ音楽性を、マイクという新技術を通じて「人の感情」を表現する芸術へと昇華させた。こうして彼は、20世紀最大のスターとしての基礎を築き、「ザ・ヴォイス」として音楽界の頂点に君臨することになるのである。
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