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第8章 シナトラとポール・アンカ、交流の軌跡(3)ラスベガスとフロリダ

1950〜60年代、フランク・シナトラとポール・アンカは、なぜラスベガスやフロリダを拠点として活動したのだろうか。その軌跡をたどる前に、まず私自身が1990年代に目にした「二つの都市の姿」について触れておきたい。 現地で感じた違和感や実感こそが、彼らの歩んだ歴史を理解するうえで重要な手がかりであると、今になって気づいたからである。 私は1990年代、仕事の関係でラスベガスとフロリダを訪れる機会を得た。両地はまさに、フランク・シナトラとポール・アンカが全盛期を過ごしたゆかりの地である。華やかな往時の姿に思いを巡らせながら現地を歩くと、そこには歴史の面影を残しつつも、それぞれ異なる時代の変化に直面している都市の姿があった。その対照的な状況を肌で感じることができた経験は、後に彼らがなぜこの地を活動の拠点としたのかを考えるうえで、大きな示唆を与えてくれた。 まず、 1990 年代中頃に、世界最大規模のコンピューターと通信技術の展示会である COMDEX を視察するためラスベガスを訪れた。展示企業は 2200 社、参加者は 22 万人に達し、会場は 3 か所に分かれていた。その規模は幕張メッセの十数倍に相当し、ラスベガスが産業・観光の両面で繁栄を極めていたことがよく分かった。 とりわけ印象的だったのは、シーザーズ・パレス前に広がる大理石の噴水や神殿の装飾である。決められた時間になると彫刻が動き出し、光や炎を用いたショーが始まる演出は圧巻であった。館内には古代ローマの街並みを模したストリートが広がり、天井には青空と雲が描かれ、照明によって朝・昼・夕方・夜へと色が変化した。外の砂漠の暑さとは無縁に、常に心地よい「ローマの黄昏」を歩いているような錯覚を与える空間であった。 後年、お台場の「パレットタウン・ヴィーナスフォート」を訪れた際、ヨーロッパ風の街並みや天井の空の演出がラスベガスの手法を参考にしていることに気づき、当時の記憶が鮮やかによみがえった。 一方、同じ時期に仕事で訪れたフロリダ・マイアミビーチは対照的であった。宿泊したホテルは老朽化が進み、周囲に停泊するヨットも少なく、かつての華やかだったであろうリゾート地の面影はほとんど残っていなかった。同僚たちが「熱海のようだ」と口にしたほどで、街全体には往年の観光地が衰退したときに漂う沈鬱な気配が広がっていた。 まさしく 1990...

第7章シナトラとポール・アンカ、交流の軌跡(2)次のステージ『史上最大の作戦』へ

  中学生のころ、はじめて自分でレコードを買い、 最初に手にしたのは、映画『史上最大の作戦』( 1962 年公開)の主題曲、 ミッチ・ミラー楽団と合唱団が演奏した 45 回転の EP 盤であった。 NHK で放送されていた「ミッチと歌おう」を毎週楽しみにしていたことも、この選択に影響したのだろう。 当時の家庭用レコードプレイヤーは、クリスタル型のサファイア針で音を拾い、付属の小さなスピーカーで再生する簡素なものだった。今思えば、その小さな装置に耳をそばだて、わくわくしながら音楽を聴いていた時間は、とても懐かしい。 ミッチ・ミラーは 1940 年代後半から 1950 年代にかけてコロムビア・レコードの重役・プロデューサーとして活躍し、同じコロムビア所属だったフランク・シナトラとしばしば対立していた。ミラーは合唱を多用したポップス路線を推し進め、シナトラはより本格的な歌唱とオーケストラによる表現を求めていたため、両者の音楽観は大きく異なっていた。 そのミッチ・ミラー楽団が演奏した『史上最大の作戦』の主題曲は、じつはポール・アンカが作曲したものである。のちにシナトラと深い関係を築き、『マイ・ウェイ』を生み出すことになるアンカの作品を、シナトラと対立していたミラーの演奏で、自宅で最初に聴いていたという事実は、今振り返ると音楽史の妙なつながりを感じさせ、不思議な縁のようにも思えてくるのである。 改めて “ ダイアナ ” が世界的大ヒットになった経緯を振り返ってみよう。 1956 年秋、 15 歳のポール・アンカは、 3 歳年上のダイアナ・アユーブへの切ない片想いをもとに、自宅のピアノで『ダイアナ』を作詞・作曲し、デモテープを録音した。 同年 11 月 19 日、ツアーでオタワを訪れたファッツ・ドミノの楽屋を訪ね、アンカは『ダイアナ』を弾き語りで披露、ドミノはその才能を強く評価し、「すぐにニューヨークへ行け」と助言。 1957 年 4 月から 5 月初めにかけて、アンカは単身ニューヨークへ向かい、 ABC パラマウント・レコードの名プロデューサー、ドン・コスタに楽曲を直接演奏、コスタは即座にその可能性を見抜き、録音を決定した。 1957 年 5 月 20 日、ニューヨークの RCA Victor スタジオにて、ドン・コスタの指揮・編曲のもと『ダイ...

第6章「マイ・ウエイ」シナトラとポール・アンカ、交流の軌跡(1)ティーン・アイドルのデビュー戦略

新潟から上京し、演歌歌手を志した一人の女性がいた。彼女は、五木ひろしを輩出した「全日本歌謡選手権」に挑戦し、見事に五週連続で勝ち抜いたものの、六週目で惜しくも敗退した。そのとき、審査員の船村徹は「お嫁さんになった方が幸せになれるから」と声をかけたという。 その言葉は彼女の胸に深く刺さり、故郷へ戻る気持ちになれず、彼女は東京に留まることを選んだ。 年月が流れた今、彼女は山中湖のほとりに建つログハウスで畑を耕しながら、穏やかな日々を送っている。静かな暮らしの中で、きっと自分なりの幸せを見いだしているのだろうと、今もそばでそっと見守っている。     毎年、多くの若者が歌手デビューを夢見て挑戦するものの、その大半は夢を叶えられない。運よくデビューできても、数年のうちに表舞台から姿を消すことがほとんどだ。 50 年後も第一線に立ち続ける歌手など、一人か二人いれば十分だろう。その「一人」がポール・アンカであることは疑いない。 ポール・アンカはカナダ・オタワで育ち、 15 歳で単身ニューヨークへ渡った。 1957 年、「ダイアナ」が世界的な大ヒットとなり、瞬く間にトップアイドルの地位を確立する。その後は作曲家・作詞家として活動の幅を広げ、現在では「マイ・ウェイ」の英語詞を手がけた作詞家として、そして第一級の音楽家として高く評価されている。まぎれもなく成功者である。 しかし、彼がいかにしてこの成功に到達したのか、その背景は意外と知られていない。とりわけ、フランク・シナトラとの交流の深まり、そして「マイ・ウェイ」誕生に至る過程には、アンカという人物の本質が、鮮やかに表れているのではないだろうか。 これまで、シナトラの歩みをたどりつつ、「マイ・ウェイ」に至る経緯を書き綴ってきたが、ポール・アンカの名前はほとんど登場しなかった。では、アンカが、どのようにしてシナトラとの関係を深めていったのか、どのようにしてこの曲を生み出すことになったのか、改めて探ってみたい。 ポール・アンカの自叙伝ともいうべき著書『 My Way: An Autobiography 』 (Paul Anka & David Dalton 著 ) によれば、ポール・アンカは 1941 年、カナダの首都オタワでレバノン系移民の家庭に生まれ、幼少期から教会合唱団や地元のボーカル・グルー...