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第6章「マイ・ウエイ」シナトラとポール・アンカ、交流の軌跡(1)ティーン・アイドルのデビュー戦略

新潟から上京し、演歌歌手を志した一人の女性がいた。彼女は、五木ひろしを輩出した「全日本歌謡選手権」に挑戦し、見事に五週連続で勝ち抜いたものの、六週目で惜しくも敗退した。そのとき、審査員の船村徹は「お嫁さんになった方が幸せになれるから」と声をかけたという。 その言葉は彼女の胸に深く刺さり、故郷へ戻る気持ちになれず、彼女は東京に留まることを選んだ。 年月が流れた今、彼女は山中湖のほとりに建つログハウスで畑を耕しながら、穏やかな日々を送っている。静かな暮らしの中で、きっと自分なりの幸せを見いだしているのだろうと、今もそばでそっと見守っている。     毎年、多くの若者が歌手デビューを夢見て挑戦するものの、その大半は夢を叶えられない。運よくデビューできても、数年のうちに表舞台から姿を消すことがほとんどだ。 50 年後も第一線に立ち続ける歌手など、一人か二人いれば十分だろう。その「一人」がポール・アンカであることは疑いない。 ポール・アンカはカナダ・オタワで育ち、 15 歳で単身ニューヨークへ渡った。 1957 年、「ダイアナ」が世界的な大ヒットとなり、瞬く間にトップアイドルの地位を確立する。その後は作曲家・作詞家として活動の幅を広げ、現在では「マイ・ウェイ」の英語詞を手がけた作詞家として、そして第一級の音楽家として高く評価されている。まぎれもなく成功者である。 しかし、彼がいかにしてこの成功に到達したのか、その背景は意外と知られていない。とりわけ、フランク・シナトラとの交流の深まり、そして「マイ・ウェイ」誕生に至る過程には、アンカという人物の本質が、鮮やかに表れているのではないだろうか。 これまで、シナトラの歩みをたどりつつ、「マイ・ウェイ」に至る経緯を書き綴ってきたが、ポール・アンカの名前はほとんど登場しなかった。では、アンカが、どのようにしてシナトラとの関係を深めていったのか、どのようにしてこの曲を生み出すことになったのか、改めて探ってみたい。 ポール・アンカの自叙伝ともいうべき著書『 My Way: An Autobiography 』 (Paul Anka & David Dalton 著 ) によれば、ポール・アンカは 1941 年、カナダの首都オタワでレバノン系移民の家庭に生まれ、幼少期から教会合唱団や地元のボーカル・グルー...

第5章「マイ・ウエイ」へのシナトラの軌跡(4)1960年代、栄光に陰りが

  1964 年の正月、私は高校受験の勉強をしながら、いつものように FEN (極東放送)に耳を傾けていた。なかでも、金曜夜 8 時半から放送される ビルボード・トップ 10 は、アメリカの最新ヒット曲を知ることができる貴重な番組で、毎週欠かさず聴いていた。 ところが、その日は思いもよらない異変が起きた。先週までランキングに姿すら見せなかった聞き覚えのない曲が、なんと 1 位から 3 位までを独占していたのである。しかも、アナウンスではグループ名が「ビールビール」と聞こえる。いったい何が起こったのかと必死に耳を澄ませた結果、ようやく 1 位の曲が I Wanna Hold Your Hand 、歌っているのは ビートルズ だと聞き取れた。 2 位は She Loves You 、 3 位は Please Please Me であった。 この突然の出来事が、後にフランク・シナトラらが象徴していた 伝統的ポピュラー音楽 の時代を大きく揺るがし、世界的な音楽潮流の転換点となるとは、当時の私には想像すらできなかったのである。   1960 年代のフランク・シナトラは、まさに“帝王”の名にふさわしい絶頂期を迎えていた。自身のレーベルである Reprise を設立したことで、創作活動の自由度は飛躍的に高まり、この 10 年間を通じて多彩な音楽的挑戦を次々と展開していく。 以下に示すのは、 1960 年代に発表されたアルバムと、その 楽曲クレジット に基づく一覧である。ただし、この時代のクレジット表記には不備や不正確な点が少なくないため、一部には推測による補足を含んでいる。 参考資料: FRANK SINATRA DIGITAL — Reprise / Capitol Catalog MKT (C92), Capitol Records 1960 年 2 月、フランク・シナトラはロサンゼルスで自身のレーベル、 リプリーズ・レコード を設立した。これは、キャピトル( EMI )との 原盤所有権 をめぐる対立が決定的となり、創作上の自由を求めたシナトラが独立を選んだ結果である。ただし、キャピトルとの契約にはまだ残存期間があり、未発表アルバム 3 作の処理が必要だった。そのため、リプリーズからの実質的な第 1 弾...