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第10章 『マイ・ウエイ』誕生の物語(2)パリにて

1967年、ポール・アンカは南フランス、カンヌ近郊の別荘で家族と過ごしていた。プールで遊んでいるとき、ラジオから偶然流れてきたのがクロード・フランソワの『Comme d’habitude』――後に『マイ・ウェイ』の原曲となる曲である。アンカはそのメロディに強く心を動かされ、曲の権利を獲得すべきだと直感した。 その年の12月30日、パリのプラザホテルで正式な契約が結ばれ、ここから『マイ・ウェイ』誕生への道が開かれていく。私たちはこの「発見と契約」のエピソードを繰り返し耳にしてきた。しかし、 その背後にある時代の空気や文化的背景については、十分に語られてこなかったのではないだろうか。当時のフランスがどのような芸術的環境にあったのかを少し探ってみたい。 1950年代から60年代後半のフランス、特にパリは、世界でも稀に見る濃密で刺激的な芸術の坩堝だった。サルトルやボーヴォワールが牽引した実存主義思想、ピカソや藤田嗣治、野見山暁治ら国際的な画家たちの前衛的な活動、オートクチュールが生み出す華やかなファッション文化、ゴダールやトリュフォーら若い映画監督による「ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)」、さらにベケットらによる革新的な演劇表現――多様な芸術潮流が同時に噴き上がり、街全体が創造のエネルギーに満ちていた。 こうした文化的磁場の中で『Comme d’habitude』が生まれ、アンカの耳に届いたことは、偶然でありながらもどこか必然だったのかもしれない。パリという都市が持つ創造の力が、世界へ通づる名曲誕生の舞台を静かに整えていたに違いない。 その創造の中心地となったのが、サン=ジェルマン=デ=プレのカフェである。ここには芸術家、文学者、写真家が集い、自由な議論と新しい表現を求めて日々交流を重ねていた。コーヒーの香りとざわめきの中で、思想や芸術が混じり合い、次々と新しい潮流が生まれていった。この活気あるコミュニティには、アメリカから渡ってきたジャズ・ミュージシャンたちも大きく関わっていた。 この時期のパリは、アメリカの黒人ジャズ・ミュージシャンにとって「人種差別がなく、芸術家として尊重される聖地」であり続けた。マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、キャノンボール・アダレイ、バド・パウエルなど、当時のトッププレイヤーたちが次々とパリを訪れ、伝説的なライブや録音を残している。 彼ら...

第10章 『マイ・ウエイ』誕生の物語(1)サンレモにて

1970 〜 80 年代のころ、東京のライブハウスによく通っていました。新橋の「ジャンク」や「スイング」、六本木の「ミスティ」や「バランタイン」など、どの店にもその店ならではの空気があって、夜ごと、行くたびに違う表情を見せてくれたものです。なかでも、青山の「ロブロイ」は今でも忘れられません。 階段を降りると、穴倉みたいな小さな地下の空間があって、ライブなど始まりそうもない気配が漂っていました。ママの遠藤さんが「そろそろ始めてよ」と演奏者にぶっきらぼうに声をかけると、ピアノの音が静かに流れ出す。お客が自分ひとりだけ、なんて夜もありました。 そのうち、かまやつひろしが「やあやあ」と顔を出し、ピアニストが「ヨー」と返す。「ベースが遅れている」と怒鳴る声が響くこともあって、客を楽しませようというより、演奏者たちの素の空気がそのまま漂っているような場所でした。そんな独特の緊張感の中で、胸がどきどきしながら耳をそばだてて、ビールを飲むよりも、音に身をゆだねていたのを思い出します。坂本龍一や矢野顕子も来ていたそうですが、会うことはありませんでした。 あの頃に感じていた「異世界のようなライブ空間」は、今ではほとんど姿を消してしまいました。武道館のジャズフェスティバルに足を運んだことがありますが、遠くのステージを大型スクリーン越しに眺めた瞬間、ふっと「ここはもう、自分がジャズを聴く場所ではないな」と思ってしまい、それ以来、自然と足が遠のいていきました。 聴きたい音楽を、聴きたい人が、自分の意思でお金を払い、その場で音楽と出会う――そんな「真実の瞬間」は、巨大な商業主義が当たり前になった今の時代にあって、どれほど貴重な意味を持っていたのだろうかと考えてしまいます。おそらくフランク・シナトラも抱えていた悩みは、きっとこのような感覚に通じるものだったのではないかと、ふと思ったりします。   成功の美談に 『マイ・ウェイ』誕生の背景には、まるでハリウッド映画のように美しく、完璧な“成功美談”が語り継がれてきた。 もともとこの曲は、フランスで発表された「 Comme d'habitude (コム・ダビチュード=いつものように)」という楽曲であり、愛が冷めきった恋人同士の静かな倦怠感の歌だった。このメロディーを南フランスで偶然耳にしたポール・アンカは、「こ...

第9章 シナトラとポール・アンカ、交流の軌跡(4)「フロリダの夕食」の謎

  私が青春を過ごした 1960 年代は、ベトナム戦争や公害問題など、世界も社会もどこか混乱気味で、文化までもが大きく揺れていた時代だった。日本でも海外でも若者の反抗が渦巻き、音楽やアートが次々と新しい姿を見せていた。私もその雰囲気に自然と影響され、ジャズ喫茶でコルトレーンを聴いたり、ロックや前衛映画、アングラ演劇に触れたりして、「これが時代の最先端だ」と思い込んでいた。 ただ、今思えば、そうした前衛文化にはどこか背伸びしてつき合っていただけなのかもしれない。そんな気持ちをふっと軽くしてくれたのが、あるピアニストのライブだった。演奏の楽しさがまっすぐ伝わってきて、「自分が本当に楽しめる音楽はこういうものだ」とはっきり気づいたのだ。 振り返ると、あの頃の私は時代の熱気に押されて、少し無理をして世界を受け止めていたのだと思う。それほどまでに、多くの領域で大きな変化が次々と起こっていた時代だったのは確かだ。   シナトラはこのフロリダ滞在期において、精神的に不安定であり、態度も荒れていたとキティ・ケリー著(注)に多くの証言が残されている。彼の身辺には、まさに内憂外患と呼ぶべき複数の問題が重なり、精神状態が健全とは言い難い状況に追い込まれていたことは事実である。   (注) Kitty Kelley (キティ・ケリー) , His Way: The Unauthorized Biography of Frank Sinatra ,  Bantam, 1983 (柴田訳『ヒズ・ウェイ』文藝春秋 , 1989 年 , 434 頁など) .   その中で何が最優先の懸念であったかを断定することは困難であるが、少なくとも、彼が長年にわたり築き上げてきたアメリカ的エンターテインメントの基盤が揺らぎ始めていたことは疑いない。とりわけ、 1960 年代半ばの「ブリティッシュ・インヴェイジョン」──イギリスのロックやポップ・ミュージックがアメリカを席巻した現象──は、既存の音楽家にとって強烈な衝撃であった。この現象は日本ではあまり強調されないが、当時のアメリカでは「英国の侵攻」とまで呼ばれ、その影響力は特別な意味をもって語られていた。   この潮流は、シナトラのような伝統的歌手にとって不快感を...

第8章 シナトラとポール・アンカ、交流の軌跡(3)ラスベガスとフロリダ

1950〜60年代、フランク・シナトラとポール・アンカは、なぜラスベガスやフロリダを拠点として活動したのだろうか。その軌跡をたどる前に、まず私自身が1990年代に目にした「二つの都市の姿」について触れておきたい。 現地で感じた違和感や実感こそが、彼らの歩んだ歴史を理解するうえで重要な手がかりであると、今になって気づいたからである。 私は1990年代、仕事の関係でラスベガスとフロリダを訪れる機会を得た。両地はまさに、フランク・シナトラとポール・アンカが全盛期を過ごしたゆかりの地である。華やかな往時の姿に思いを巡らせながら現地を歩くと、そこには歴史の面影を残しつつも、それぞれ異なる時代の変化に直面している都市の姿があった。その対照的な状況を肌で感じることができた経験は、後に彼らがなぜこの地を活動の拠点としたのかを考えるうえで、大きな示唆を与えてくれた。 まず、 1990 年代中頃に、世界最大規模のコンピューターと通信技術の展示会である COMDEX を視察するためラスベガスを訪れた。展示企業は 2200 社、参加者は 22 万人に達し、会場は 3 か所に分かれていた。その規模は幕張メッセの十数倍に相当し、ラスベガスが産業・観光の両面で繁栄を極めていたことがよく分かった。 とりわけ印象的だったのは、シーザーズ・パレス前に広がる大理石の噴水や神殿の装飾である。決められた時間になると彫刻が動き出し、光や炎を用いたショーが始まる演出は圧巻であった。館内には古代ローマの街並みを模したストリートが広がり、天井には青空と雲が描かれ、照明によって朝・昼・夕方・夜へと色が変化した。外の砂漠の暑さとは無縁に、常に心地よい「ローマの黄昏」を歩いているような錯覚を与える空間であった。 後年、お台場の「パレットタウン・ヴィーナスフォート」を訪れた際、ヨーロッパ風の街並みや天井の空の演出がラスベガスの手法を参考にしていることに気づき、当時の記憶が鮮やかによみがえった。 一方、同じ時期に仕事で訪れたフロリダ・マイアミビーチは対照的であった。宿泊したホテルは老朽化が進み、周囲に停泊するヨットも少なく、かつての華やかだったであろうリゾート地の面影はほとんど残っていなかった。同僚たちが「熱海のようだ」と口にしたほどで、街全体には往年の観光地が衰退したときに漂う沈鬱な気配が広がっていた。 まさしく 1990...