第5章「マイ・ウエイ」へのシナトラの軌跡(4)1960年代、栄光に陰りが

 1964年の正月、私は高校受験の勉強をしながら、いつものように FEN(極東放送)に耳を傾けていた。なかでも、金曜夜8時半から放送される ビルボード・トップ10 は、アメリカの最新ヒット曲を知ることができる貴重な番組で、毎週欠かさず聴いていた。

ところが、その日は思いもよらない異変が起きた。先週までランキングに姿すら見せなかった聞き覚えのない曲が、なんと1位から3位までを独占していたのである。しかも、アナウンスではグループ名が「ビールビール」と聞こえる。いったい何が起こったのかと必死に耳を澄ませた結果、ようやく1位の曲が I Wanna Hold Your Hand、歌っているのは ビートルズ だと聞き取れた。2位は She Loves You3位は Please Please Me であった。

この突然の出来事が、後にフランク・シナトラらが象徴していた伝統的ポピュラー音楽 の時代を大きく揺るがし、世界的な音楽潮流の転換点となるとは、当時の私には想像すらできなかったのである。

 

1960年代のフランク・シナトラは、まさに“帝王”の名にふさわしい絶頂期を迎えていた。自身のレーベルである Reprise を設立したことで、創作活動の自由度は飛躍的に高まり、この10年間を通じて多彩な音楽的挑戦を次々と展開していく。

以下に示すのは、1960年代に発表されたアルバムと、その 楽曲クレジット に基づく一覧である。ただし、この時代のクレジット表記には不備や不正確な点が少なくないため、一部には推測による補足を含んでいる。

参考資料:

FRANK SINATRA DIGITAL — Reprise / Capitol Catalog MKT (C92), Capitol Records


19602月、フランク・シナトラはロサンゼルスで自身のレーベル、リプリーズ・レコード を設立した。これは、キャピトル(EMI)との 原盤所有権 をめぐる対立が決定的となり、創作上の自由を求めたシナトラが独立を選んだ結果である。ただし、キャピトルとの契約にはまだ残存期間があり、未発表アルバム3作の処理が必要だった。そのため、リプリーズからの実質的な第1弾アルバムである Ring-a-Ding-Ding! のリリースは、翌19613月まで待たねばならなかった。

 

19607月『Nice 'n' Easy』(Capitol, 制作:デイブ・キャバノー, 指揮:ネルソン・リドル,米国1位)      

19611月『Sinatra's Swingin' Session!!!』(Capitol, 制作:デイブ・キャバノー, 指揮:ネルソン・リドル, 米国3位、)      

19613月『Ring-a-Ding-Ding!』(Reprise, 制作:フェリックス・スラットキン, 指揮:ジョニー・マンデル, 米国1位)    

19617月『Come Swing with Me!』(Capitol, 制作:デイブ・キャバノー, 指揮:ビリー・メイ, 米国8位)

19617月『Swing Along With MeSinatra Swings)』(Reprise, 制作:ソニー・バーク, 指揮:ビリー・メイ, 米国6位)

196110月『I Remember Tommy』(Reprise, 制作:グレッグ・ゲラー, 指揮:サイ・オリバー, 米国3位)

19621月『Sinatra and Strings』(Reprise, 指揮:ドン・コスタ, 米国8位)

19623月『Point of No Return』(Capitol, 制作:デイブ・キャバノー, 指揮:アレックス・ストダール, 米国19位)

19627月『Sinatra and SwinginBrass』(Reprise, 制作:グレッグ・ゲラー, 指揮:ニール・ヘフティ, 米国18位)

196210月『All Alone』(Reprise, 指揮:ゴードン・ジェンキンス, 米国25位)

196211月『Sinatra Sings Great Songs from Great Britain』(Reprise, アレンジャー:ロバート・ファーノン)

196212月『SinatraBasie: An Historic Musical First』(with Count BasieReprise,指揮:ニール・ヘフティ, 米国16位)

 

19638月、フランク・シナトラが設立した リプリーズ・レコード は、大手映画スタジオである ワーナー・ブラザース によって買収された。リプリーズ創設からわずか3年半後のことであり、シナトラは同社に対し、自身が保有していた株式の約3分の2(資料によっては100%の権利とする記述もある)を売却したとされる。

 

19635月『The Concert Sinatra』(Reprise, 米国6位)

19638月『Sinatras Sinatra』(Reprise, 制作:ソニー・バーク, 指揮:ビリー・メイ, 米国8位)

19643月『Sinatra Sings Days of Wine and Roses, Moon River, and Other Academy Award Winners』(Reprise, 制作:ソニー・バーク, 米国10位)

19644月『America, I Hear You Singing』(with Bing Crosby, Fred WaringReprise, 制作:ソニー・バーク, アレンジャー:トム・スコット, 米国116位)

19648月『It Might as Well Be Swing』(with Count BasieReprise, 制作:ソニー・バーク, 指揮:クインシー・ジョーンズ, 米国13位)

196411月『Softly, as I Leave You』(Reprise, 制作:ジミー・ボーエン, ソニー・バーク, 米国19位)

19658月『September of My Years』(Reprise, 制作:ソニー・バーク, 米国5位)

196511月『My Kind of Broadway』(Reprise, 制作:ソニー・バーク, 米国30位)

196511月『A Man and His Music』(Reprise, 制作:ソニー・バーク, 米国9位)

19663月『Moonlight Sinatra』(Reprise, 制作:ソニー・バーク, 指揮:ネルソン・リドル, 米国34位)

19665月『Strangers in the Night』(Reprise, 指揮:ネルソン・リドル, 米国1位)

196612月『Thats Life』(Reprise, 制作:ジミー・ボーエン, 米国6位)

19673月『Francis Albert Sinatra & Antonio Carlos Jobim』(with Antonio Carlos JobimReprise, 制作:ソニー・バーク, 米国19位)

19678月『The World We Knew』(Reprise, 制作:ジミー・ボーエン, 米国24位)

19681月『Francis A. & Edward K.』(with Duke EllingtonReprise, 制作:ソニー・バーク, 指揮:ビリー・メイ, 米国78位)

19689月『The Sinatra Family Wish You a Merry Christmas』(with Frank Jr., Nancy, TinaReprise, 制作:ソニー・バーク, アレンジャー:ネルソン・リドル, ドン・コスタ)

196811月『Cycles』(Reprise, 制作:ドン・コスタ,  米国18位)

19693月『My Way』(Reprise, 制作:ソニー・バーク, 指揮:ドン・コスタ, 米国11位)

19698月『A Man Alone』(Reprise, 制作:ソニー・バーク, アレンジャー:ドン・コスタ,米国30位)

 

1960年代のシナトラは、10年間で30枚を超えるアルバムを発表しており、平均しても年3枚以上、特に前半は年5枚に達するという驚異的なペースで創作を続けていた。その圧倒的な意欲と充実ぶりは、1962421日の初来日時に記録された東京での二つのライブ映像からもはっきりと伝わってくる。

 

日比谷公会堂でのコンサート

https://youtu.be/hryWVBdoQRE?si=700weIeBX-g5GjHq 

同日夜・赤坂レストランシアター「ミカド」

https://youtu.be/waDTef-q3oQ?si=cQC2SBoxl21s8iD4

 

これらの ライブ映像 では、シナトラの表現者としての幅と深みを鮮明に確認できる。特に日比谷のステージでは、過剰な演出を排し、シナトラ自身の“声”と、音楽監督 ビル・ミラー 率いる精鋭メンバーによる小規模なアンサンブルだけで音楽の空間を演出している。親しみやすいながら凄みを帯びたジャズ・シンガー としての真骨頂が刻まれた名演である。

さらに、同日夜に行われた赤坂「ミカド」でのライブでは、当時の日本における最先端の社交の場を舞台に、タキシード姿のシナトラが洗練された客層を前に、独自のエンターテインメント空間を鮮やかに構築していく姿が映し出されている。

なお、ビル・ミラーはこの来日公演以降も長くシナトラの音楽活動を支え続け、最終的には引退コンサートに至るまで寄り添い続けた。

 

1960年、フランク・シナトラが自らのレーベル、リプリーズ・レコード を設立した背景には、単なる金銭的動機を超えた、表現者としての自由への強い渇望と、経営者としての先見性にあったと考えられている。まさに、彼が独立を決断した最大の理由は、アルバム制作における完全なクリエイティブ・コントロール を獲得することにあったといってよい。

当時の音楽業界では、収益構造の中心に 原盤所有権(Ownership)と印税(Royalty)があった。制作、再発や二次利用からの収益は原盤を所有するレーベル側が主導的に配分していた。1950年代のキャピトル時代、シナトラはネルソン・リドルらとともに高度な芸術性を持つ名作を次々と生み出したが、それでも最終的な制作決定権はレーベル側にあった。さらに遡れば、1940年代のコロムビア時代には、本人の意に沿わない楽曲を歌わされる経験すらしている。

こうした積み重ねが、シナトラの中に「他者に表現を支配させない」という強い自衛本能を育てたことは想像に難くない。キャピトルに対して、特に所有権と決定権の問題で不満を抱いていたことは明らかである。どれほど多くのレコードを売り上げても、最終的な権限は会社側にあり、アーティストはその枠内で活動するしかなかった。

その状況を根本から変えるために、シナトラは「アーティスト自身が音楽の所有権を持ち、制作の全権を握る」という、当時としては極めて革新的な発想を実行に移したのである。彼は自ら The Chairman of the Board を名乗り、リプリーズを率いるとともに、自らの美学と価値観を共有するアーティストを育成・プロデュースする体制を整えた。また、信頼できる専門家を経営陣に配置することで、レーベル運営を持続可能なものとした。

シナトラの独立は、「自分の声が最も輝く環境を自らつくり出す」という表現者としての執念と、「音楽を永続的な資産として管理する」という経営者としての戦略眼を結びつけ、両立させる画期的な試みであった。これは、アーティスト自身が創作物の 所有権 を持ち、制作の主導権を握るという点で、今では当たり前になったシステムであるけれども、当時の音楽産業において極めて革新的な発想だった。

リプリーズ・レコードの設立によって、シナトラは クリエイティブ・コントロール を完全に掌握し、作品の方向性・選曲・アレンジ・録音体制に至るまで、すべてを自らの判断で決定できるようになった。さらに、原盤権を自ら保持することで、音源の再発・二次利用・将来の収益に対しても長期的なコントロールを確保したのである。

こうした取り組みは、アーティストが単なる「歌い手」ではなく、自らの作品を管理し、産業構造に影響を与える主体となる道を切り開いた点で、音楽史における重要なイノベーションであったと言える。

 

シナトラが独立してから3年後の1963年、彼のレーベル リプリーズ・レコード ワーナー・ブラザース に売却され、実質的にはワーナー傘下への吸収合併という形となった。この出来事は一見すると“身売り”のようにも映るが、実際には、独立時に掲げた理想をさらに拡大し、より大きなメディア基盤を獲得するための戦略的な経営判断であった。

当時、リプリーズはヒット作を生み出していたものの、製造・在庫管理・流通といった バックオフィス業務 は、個人経営の規模を超える負担となりつつあった。シナトラは、レーベルを完全に自前で抱え続けるよりも、巨大資本を持つワーナーのインフラを活用し、自らは音楽制作に集中する方が合理的であると判断したのである。

重要なのは、単なる販売委託や業務提携ではなく、リプリーズをワーナーの組織に統合する「吸収合併」という形を選んだ点である。これにより、外部資源の利用を超えて、ワーナーの経営・制作・宣伝機能を自らの活動基盤に取り込み、より強固で持続的な体制を築くことを意図したのである。

らに、映画会社である ワーナー・ブラザース は強力な制作・宣伝インフラを持っており、シナトラはこの映画資源と自らの音楽活動を結びつけることで、次のようなメディア横断型の展開を構想していた。

l  映画主題歌 として自分のレコードを組み込む

l  テレビ特番 で楽曲や映画を相互に宣伝する

l  レコード・映画・テレビを一体化した メディアミックス(コンテンツの垂直統合)を展開する

これは1960年代当時としては非常に先駆的な発想であり、音楽・映画・テレビを統合的に運用するモデルを早い段階で実現しようとした点で特筆される。

こうした戦略は、後年の日本におけるフジサンケイグループとポニーキャニオンが展開した「おニャン子クラブ」型のメディアミックス手法にも通じるものであり、その先駆的モデルとして位置づけることができる。

合併の結果、シナトラはワーナー・ブラザース映画の副社長職と株式を得て、映画制作における決定権を手にした。もはや単なるレーベル売却ではなく、音楽・映画・テレビを横断ワーナー・ブラザースによるリプリーズ・レコードの吸収合併の結果、シナトラはワーナー・ブラザース映画部門の副社長職と株式を得て、映画制作に関する一定の 決定権を手にした。これは単なるレーベル売却ではなく、音楽・映画・テレビを横断する総合的な エンターテインメント企業 の中枢に、自らの活動基盤を築くという極めて積極的な経営判断であった。

同時に、レーベル売却によって創業者利益を確定し、役員報酬や配当といった安定した収益を得るエグジット戦略でもあった。したがって、この売却は衰退を前提とした「守りの身売り」ではなく、より大きなステージへ進むための「攻めの身売り」と位置づけるのが妥当である。

フランク・シナトラは、キャピトル時代におけるレーベル主導の 隷属的契約 から脱却するため、自らのレーベル リプリーズ・レコード を設立した。そしてワーナー・ブラザースの巨大な資本と流通網をレバレッジ として活用することで、アーティスト側ではなく プラットフォーマー側に回り、制作と流通の主導権を手に入れたのである。

これは単なる独立レーベルの創設を超えて、自分の音楽を、自分の意志でファンに届ける」という根源的で根本的な思いを、ビジネスとして 垂直統合しようとした極めて先駆的な試みだった。

日本では、五木ひろしが非常に似た道を歩んでいる。1971年のデビュー以来、弱小プロダクションである野口プロへの恩義が長く制約となっていたが、その関係を解消するために 2億円 を支払い、さらに徳間グループという大資本との長期的アライアンスを経て、2002年に ファイブズエンタテインメントを設立した。これにより、ようやく「自分の歌の権利」を自らの手に取り戻すことができたのである。

日米のトップランナーである二人が、数十年にわたり莫大な資金と政治力を投じて成し遂げた思いは、突き詰めれば、

 

「自分の歌を、自分の意志でファンに届ける」 

 

という歌手として最も基本的な願いを、外部資本や旧来の契約構造に依存せず、自前の仕組みとして完結させること、これこそが、二人が長い時間をかけて勝ち取った核心なのではないだろうか。

こうした垂直統合は、巨大な市場価値と交渉力を持つトップ歌手だからこそ可能だったという側面もある。しかし、その背後には、表現者としての 自律性を守るための長い闘い が確かに存在していた。

1960年代の10年間、シナトラは多彩な音楽的挑戦を続けるため、自らの創作環境を大きく変えていった。とりわけ重要なのが、アレンジャーの多様化と、レコード制作におけるA&RArtists & Repertoire)の存在感の増大である。

まず、アレンジャーの起用が一気に広がった。キャピトル時代のシナトラは、音楽的な核をネルソン・リドルに大きく委ねていた。しかしリプリーズ期に入ると、ビリー・メイ、ドン・コスタ、ニール・ヘフティ、ゴードン・ジェンキンス、さらにはクインシー・ジョーンズといった多彩なアレンジャーたちと積極的にコラボレーションするようになる。

それぞれのアレンジャーが持つ個性がシナトラの表現領域を押し広げ、“自由に音楽を創るシナトラ”という新しい像を切り開いていった。

もう一つの大きな変化は、A&R の役割である。A&R 193040年代のアメリカ大手レーベルで制度として確立したが、録音技術の発展とレコード産業の巨大化に伴い、アレンジャー中心の制作体制から、より市場戦略に対応した制作体制へと移行していった。その結果、A&R は企画(何を作るか)、予算管理(いくらで作るか)、収益性の判断(売れるかどうか)、レパートリー選定、アレンジャーや指揮者の起用、シングル戦略、契約管理といった領域を担い、事業責任=利益責任を持つ存在へと変化した。

1960年代には、デイヴ・ブルーベックやマイルス・デイヴィスを担当したテオ・マセロ、ボブ・ディランを手がけたジョン・ハモンド、ボサノヴァを仕掛けたクリード・テイラーなど、強い権限を持つ A&R が次々と登場した。A&R がアーティストより強い影響力を持つことも珍しくなくなり、制作現場の力学は大きく変わっていったのである。

この構造変化は、表現者として完全な制作権限を求めるシナトラの理想と、事業責任を負う A&R──とりわけジミー・ボーエン──の判断がしばしば衝突する状況を生み出した。その矛盾が最も鮮明に現れた事例が、よく知られている「夜のストレンジャー」の制作である。


ここで指摘しておきたいのは、この対立の背景に、1950年代後半から1960年代にかけて進行した米国ポピュラー音楽の国際化という大きな潮流が存在していた点である。この国際化は単なる音楽の輸出入ではなく、世界の大衆音楽文化がアメリカ市場に吸収され再編されるという双方向的な循環を生み出した現象であった。

これまで、各国はシャンソン、カンツォーネ、ポルカといった固有の大衆音楽を自国語で歌い、文化圏ごとに明確な境界を保っていた。しかし1950年代後半になると、アメリカのレコード産業は「売れるメロディであれば国籍を問わず取り込む」という商業主義を強め、世界各地の音楽を積極的に吸収し始めた。その象徴がイタリアの『ボラーレ』であり、同曲が全米1位を獲得し、1959年の第1回グラミー賞で主要二部門を制した事実は、アメリカの音楽産業にヨーロッパの旋律の商業的価値を強烈に認識させる契機となった。

フランスからはフレンチ・ポップスが、ドイツからはベルト・ケンプフェルトのインストゥルメンタル作品が広く受けいれられて、特に歌詞の壁を越えやすいインスト作品は“国際ポップス”としてアメリカ市場で大きな成功を収めた。

こうした国際化の流れが爆発的な形で可視化されたのが、1964年のビートルズのアメリカ上陸である。ビートルズはビル・ヘイリー、エルヴィス・プレスリー、チャック・ベリー、リトル・リチャードら米国ロックンロールの創始者から強い影響を受けており、その成功は「アメリカ音楽の国際的影響力 英国での再編 アメリカへの逆輸入」という循環の完成形であった。ビートルズ旋風は、アメリカの音楽商業主義が「世界のどこにあろうとも売れるコンテンツを吸収し、巨大市場で再マネタイズする」という集積システムを完成させた証拠であり、若者向けロックの大量消費時代の到来を告げるものであった。

この国際化の進展は、作品流通の拡大だけでなく、音楽家の国際的移動を可能にした制度的改革によって支えられていた点が重要である。1935年から1956年までの約20年間、アメリカとイギリスのミュージシャンズ・ユニオンは報復的な労働争議を続け、双方の楽団が相手国で演奏することを禁じる厳格なプロテクショニズムを敷いていた。このため、ルイ・アームストロングやデューク・エリントンのような世界的巨匠でさえ英国で演奏できない状況が続いていた。

この長期的な膠着状態を解消したのが、1956年に実現した「一対一の対等交換」を条件とする特別許可、いわゆる交換ツアーである。これにより、英国のテッド・ヒース楽団は全米30都市を巡演し、米国のスタン・ケントン楽団もロンドンでの3公演を皮切りに、約1か月にわたる英国巡業を行うことが可能となった。こうして、両国間で20年近く途絶えていた音楽家交流がようやく再開されたのである。

当時のアメリカ側には、「スイング・ジャズの本場はアメリカであり、英国の白人バンドに本格的なスイングができるはずがない」という先入観が根強く存在していた。交換相手であるスタン・ケントン楽団は“プログレッシブ・ジャズ”と称され、当時の主流から見れば異端視される側面もあったが、テッド・ヒース楽団はグレン・ミラーやベニー・グッドマンといった白人スイング楽団のレパートリーに加え、カウント・ベイシーやデューク・エリントンのナンバーも手掛けており、アメリカのスイング・ジャズを十分に理解したうえで英国流の解釈を提示していた。

1956年のテッド・ヒース楽団の米国ツアーは、ニューヨークを皮切りにボストン、フィラデルフィア、デトロイト、シカゴ、セントルイスなど全米主要都市を約1か月かけて巡る大規模なロードショーであった。さらに、ナット・キング・コールやフォー・フレッシュメンといった当時のアメリカを代表するスターとの合同公演という、極めて豪華なパッケージで構成されていた。当時のアメリカ音楽界にとっても歴史的な「超大イベント」であった。

5月1日、ヒース楽団がニューヨークのカーネギー・ホールに登場した際、会場は超満員で埋め尽くされていた。英国のバンドを一段下に見ていたアメリカの聴衆は、ヒース楽団が一音、鳴らした瞬間、その緻密なアンサンブルと圧倒的なスイング感に魅了され、批評家も観客も総立ちとなった。私自身、今回改めて録音を聴き直したが、スイング感あふれる演奏そのものは英国録音と同様に完成度が高い一方、観衆の反応は明らかに英国以上であり、割れんばかりの熱狂的な拍手が収められている。これは、英国のポピュラー音楽が「本場アメリカに対して対等に渡り合えることを初めて証明した瞬間」であった。

この出来事は音楽界の内輪話にとどまらず、タイム誌やニューズウィーク誌をはじめとする一般のマスメディアが社会現象として大々的に報じた。1956年の交換ツアーは、20年に及ぶ禁輸措置の氷を溶かし、音楽家が国境を越えてツアーを行い、収益を得るという、現代的なライブビジネスの扉を開いた制度的転換点であったと言える。

ビートルズが1964年に堂々と渡米できたのも、この制度改革の延長線上に位置づけられる。こうした国際化の進展は、アメリカ国内の音楽家にとっても重要な意味を持った。若者向けロックの大量消費が進む中で、シナトラら既成のシンガーは市場の中心から押し出されつつあった。あのエラ・フィツジェラルドがビートルズを歌うなど、ヨーロッパからの輸入メロディが彼らにとって新たな楽曲レパートリーとなったほどであった。すなわち、米国ポピュラー音楽の国際化とは、世界のメロディがアメリカ市場に吸収され再編される構造と、音楽家の移動自由化という制度改革が重なり合うことで成立した、音楽産業の本質的な変容であったと言えるのである。

 

まさにこの国際化の潮流をシナトラの作品に取り入れようとしたのが、A&R のジミー・ボーエンによる「夜のストレンジャー」の企画であった。この曲は、米国ポップスの国際化とシナトラの美学、そしてA&Rの商業判断が正面から衝突した象徴的な作品である。

シナトラがこの企画を望んでいたのか、あるいは快く思っていたのかについては、確かに複数の解釈が存在する。事実として、この企画はシナトラ自身が主導したものではなく、A&Rのジミー・ボーエンが外部から持ち込んだものであった。また、当初からシングル盤の売上を最優先した商業的企画であり、シナトラが重視してきた「LPを単位とするコンセプトアルバム」として構想された作品ではなかった。さらに、この楽曲は他の歌手との競合の末に獲得したものであり、シナトラのキャリアにおいても異例の経緯を持つ。加えて、シナトラがこれまで避けてきたスキャットを導入するなど、表現面でも例外的な要素が多かった。

このシングルの成功を受けて制作されたLPも、シナトラが嫌悪していた寄せ集め型のアルバムであり、彼の美学からすれば本来受け入れがたい形式であった。しかし当時のシナトラは、商業的要請やレーベルとの力関係から、この企画を拒むことが難しい状況に置かれていたことも事実である。そのことは彼の心理に大きな影響を与え、「夜のストレンジャー」の成功は、シナトラの芸術観と音楽産業の現実が鋭く交差した転換点として位置づけられるのである。

シナトラを取り巻く大きな環境変化として、ラスベガスを中心とするステージショーの変質に触れておく必要がある。シナトラは、映像と音楽を統合する表現の場としてステージを重視していたことは疑いない。彼が立っていたのは、約千人規模の洗練された大人の観客に向け、ウィットに富んだ語りと歌をじっくり聴かせるための空間であった。

なお、日本の歌手がしばしば「カーネギー・ホール」と一括して語る会場は、現在、実際には三つのホールから構成されている。

l  メインホール(Stern Auditorium / Perelman Stage):2,790

l  ザンケル・ホール(Zankel Hall):599

l  ウェイル・リサイタル・ホール(Weill Recital Hall):268

これらがカーネギー・ホールの全体であり、最大規模でも約3,000席というのが、20世紀半ばまでの音楽興行としては、この規模が「最大級」であったことは事実である。

 しかし、商業主義の進展により、コンサート会場は次第に数万人規模へと拡大していった。その背景には、レコード販売よりもライブ収益の方が圧倒的に大きくなったという、音楽産業の経済構造の変化がある。

単純に計算すれば、1万円のチケットで1万人を動員すれば、1回の公演で1億円の売上となる。一方、レコードが12,000円として1万枚売れても、売上は2,000万円に過ぎない。ライブの収益性は、レコード販売とは比較にならないほど高かったのである。

 

この大規模化への最初の転換点は、1965815日のビートルズによるニューヨーク・シェア・スタジアム公演(約55千人収容)である。ここで露呈した最大の問題はPA、すなわち音響技術であった。スタジアムに分散配置されたスピーカーは、距離差による到達時間のズレを生み、客席ではエコーのように音が濁り、演奏者自身も自分の音が聞こえずテンポを合わせることが困難であることが明らかになった。

興行としては大成功であったものの、音響面での失敗は、巨大な空間で電気楽器と歌を正確に届けるためには、専用の音響システムが不可欠であることを強く印象づけた。

この課題に対する解決策として導入されたのが、高出力アンプ、ステージ両脇に高さを持たせてスピーカーを積み上げる方式、そして指向性を高度に制御する技術である。これらの工夫により、音源を一点に集約し、スピーカー間の距離によって生じる到達時間のズレを最小限に抑えることが可能となった。

そして、複数のマイクや楽器の音をステージ上でまとめ、数十本の信号を一本に束ねて送る「マルチケーブル」と、客席中央で音響バランスを最適に調整する「PAミキシング・コンソール」が、この時期に標準的な設備として定着した。これにより、エンジニアは客席で実際に聴こえる音を基準に、バランスや音量をリアルタイムで補正できるようになった。

1966630日から72日にかけて行われたビートルズの日本武道館公演(全5公演)は、前年のシェア・スタジアム公演で露呈した混乱を踏まえ、日本側が独自の工夫を重ねた結果、奇跡的に「ライブとして成立した」公演であった。

この武道館公演は、日本における大規模ポップス/ロックコンサートの原型となり、音楽興行史における重要な転換点となった。この成功は、今日のアリーナやドーム球場で行われる大規模コンサートの先駆であり、音楽ビジネスの構造が変化していく象徴的な出来事でもあった。

こうした技術革新と運営ノウハウの蓄積を背景に、野外フェスティバルが隆盛し、観客規模は一気に数万人へと拡大していく。日本では196989日の中津川フォークジャンボリーに数千人が動員され、同時期の815日〜18日に開催されたウッドストック・フェスティバルでは40万人以上が集まった。

1970年代以降、巨大会場を巡るライブツアーはアーティストにとって最大の収益源となり、ポピュラー音楽は「数万人が同時に熱狂を共有する巨大商業ビジネス」へと成熟していったのである。

では、シナトラがこの変質をどう見たかは明らかである。商業主義の肥大化とPAの進化は、ポピュラー音楽を数万人で共有できるエンターテインメントに押し上げた。しかしそれは同時に、シナトラが理想として愛した『一対一の親密な対話としての音楽』の時代の終焉を意味していた。

このように、技術の進化(大規模PAの獲得)が、逆に「アーティストが本当に表現したかった音空間」を奪っていくというパラドックスは、ビジネスモデルの変遷において極めて大きな画期をなすだろう。

 

シナトラを襲ったもう一つの大きな出来事が、大富豪ハワード・ヒューズによるラスベガス買収である。これは単なる経営者の交代ではなく、ラスベガスという街の支配構造を「掟と情の世界」から「資本の論理が支配する企業経営」へと根底から塗り替える歴史的転換点であった。

ラスベガスは、シナトラにとって表現者としてのホームベースであり、自分らしい芸を追求できる特別な場所であった。その街が大きく変質したことは、彼に深い影響を与えたのは当然である。

1966年頃、ハワード・ヒューズは「デザート・イン」を皮切りに、主要なカジノホテルを次々と買収した。それまでのラスベガスは、マフィアによる家業的経営――義理、人情、掟で動く世界――が支えていた。しかしヒューズの参入によって、街は数字と契約がすべてを決める「企業の論理」によって再編されていった。かつての不透明ながらも濃密なプロ同士の絆は、効率と管理を重視するコーポレート・モデルに取って代わられた。

この変化は、ラスベガスで「帝王」として君臨していたシナトラの特権的地位を直撃した。1967年、ヒューズがシナトラの本拠地であったサンズ・ホテルを買収した際、それまで彼に認められていた特権としての無制限のカジノ・クレジット(マーカー)が突然停止された。この扱いに激怒したシナトラは、ゴルフカートでサンズの窓に突っ込むという大乱闘を起こす。

この事件をきっかけに、10年続いたサンズとの関係は完全に終わり、シナトラはラスベガスでの新たな拠点としてヒューズに買収されなかったシーザーズ・パレスへ移ることになった。

企業化が急速に進むラスベガスは、シナトラに深い絶望と倦怠感をもたらした。彼が愛した「夜の帝国の美学」──プロ同士の暗黙の絆、義理と流儀で成り立つ世界──は姿を消し、かつて主役として扱われた街で、彼は巨大企業の中の「一アーティスト」に過ぎない存在へと押し戻されていった。

さらに、ラスベガスが「選ばれた大人の社交場」から「観光客向けの巨大レジャー都市」へと変貌したことで、演奏中に食器を鳴らすような礼儀を欠く観客が増えたことにも、シナトラは強い苛立ちを覚えたとされる。

ハワード・ヒューズによるホテル買収をはじめとする一連の変質は、シナトラにとって「自分が愛し、支配してきた世界の終わり」を象徴する出来事であり、彼の理想とする表現者像を少しずつ侵食していった。

 

シナトラは、もはや1952年のシナトラではなかった。あの頃は、失うものが何もなかったからこそ、純粋に表現者としての衝動だけを追いかけることができた。しかし1967年の彼の周囲には、多くのスタッフや部下がいた。生活を支えなければならない人々がいた。

たとえA&Rのジミー・ボーエンが持ち込んだ企画が気に入らなくても、ビジネスとして利益が見込めるなら、無視して突っぱねるわけにはいかない。シナトラはすでに「歌手」であると同時に「経営者」の一角であり、仲間の能力を生かし、組織を動かす立場に立っていたのである。

五十を過ぎた男には、わがままだけでは決められない現実がある。妥協すべき時は妥協する──それを学んだ年齢でもあった。

しかし、妥協を重ねるほどに、理想から少しずつ、確実に遠ざかっていく。

かつての「自分らしさ」が手のひらからこぼれ落ちていく感覚が、心の奥に重く沈んでいた。

そして――フロリダ前夜である。

心のどこかで「何か救いはないか」「最後に一度だけ、わがままを言えないか」と叫ぶ声があった。その小さな悲鳴のような思いが、あのフロリダでの夕食につながったのだろう。ポール・アンカは、その夜、シナトラの愚痴をただ黙って聞いていた。シナトラが吐き出したのは、若い頃の焦りでも怒りでもない。人生の酸いも甘いも知り尽くした男が、それでもなおつきまとう、どうしようもない孤独と疲れだった。

成熟した男の、静かな、しかし深い嘆き。

その行き場のない思いが、ポール・アンカという若き才能に向けられた――。

 

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