第6章「マイ・ウエイ」シナトラとポール・アンカ、交流の軌跡(1)ティーン・アイドルのデビュー戦略

新潟から上京し、演歌歌手を志した一人の女性がいた。彼女は、五木ひろしを輩出した「全日本歌謡選手権」に挑戦し、見事に五週連続で勝ち抜いたものの、六週目で惜しくも敗退した。そのとき、審査員の船村徹は「お嫁さんになった方が幸せになれるから」と声をかけたという。 その言葉は彼女の胸に深く刺さり、故郷へ戻る気持ちになれず、彼女は東京に留まることを選んだ。

年月が流れた今、彼女は山中湖のほとりに建つログハウスで畑を耕しながら、穏やかな日々を送っている。静かな暮らしの中で、きっと自分なりの幸せを見いだしているのだろうと、今もそばでそっと見守っている。 

 

毎年、多くの若者が歌手デビューを夢見て挑戦するものの、その大半は夢を叶えられない。運よくデビューできても、数年のうちに表舞台から姿を消すことがほとんどだ。50年後も第一線に立ち続ける歌手など、一人か二人いれば十分だろう。その「一人」がポール・アンカであることは疑いない。

ポール・アンカはカナダ・オタワで育ち、15歳で単身ニューヨークへ渡った。1957年、「ダイアナ」が世界的な大ヒットとなり、瞬く間にトップアイドルの地位を確立する。その後は作曲家・作詞家として活動の幅を広げ、現在では「マイ・ウェイ」の英語詞を手がけた作詞家として、そして第一級の音楽家として高く評価されている。まぎれもなく成功者である。

しかし、彼がいかにしてこの成功に到達したのか、その背景は意外と知られていない。とりわけ、フランク・シナトラとの交流の深まり、そして「マイ・ウェイ」誕生に至る過程には、アンカという人物の本質が、鮮やかに表れているのではないだろうか。

これまで、シナトラの歩みをたどりつつ、「マイ・ウェイ」に至る経緯を書き綴ってきたが、ポール・アンカの名前はほとんど登場しなかった。では、アンカが、どのようにしてシナトラとの関係を深めていったのか、どのようにしてこの曲を生み出すことになったのか、改めて探ってみたい。

ポール・アンカの自叙伝ともいうべき著書『My Way: An Autobiography (Paul Anka & David Dalton )によれば、ポール・アンカは1941年、カナダの首都オタワでレバノン系移民の家庭に生まれ、幼少期から教会合唱団や地元のボーカル・グループ「ボビー・ソックス・ロッカーズ」で活動し、早くから「歌うこと」と「書くこと」を同時にこなす早熟な才能を持っていた。彼にとって歌唱と創作は最初から不可分だったのである。聖歌隊では和声と合唱構造を学び、ピアノ・トランペット・ドラムを独学で習得していった。

ポール・アンカは、父親が経営する人気の高級レストラン「ニュー・ロカンダ」を手伝いながら育った。この店は地元の政治家、実業家、ジャーナリストが集う社交場であり、若いアンカは日常的に“大人が何に反応し、何に感動するのか”を間近で観察することができた。こうした経験は、後に彼が語った「何が求められているかを見極め、それを提供することが重要だ」という姿勢につながり、冷徹なマーケット感覚と対人能力を育てる基盤となった。

さらに、レストランにはツアーで訪れる著名ミュージシャンも出入りしており、アンカは自然とエンターテインメント産業の空気に触れ、人脈形成の基礎を築いていった。父の店で培われた「観察者としての視点」は、後のキャリアにおいて大きな武器となり、彼の成功を支える重要な要素となったのである。

 

時系列で動向をフォローしてみよう。なお、日付データは、ポール・アンカの自叙伝でも記憶違いがありそうで、情報源によって異なるので、私の方で整合性を判断して、妥当と思われる日付を記載した。

 1956年後半、3歳年上で姉の家のベビーシッターであったダイアナ・アユーブへの片想いをモチーフに、自宅のピアノで『ダイアナ』を作曲する。この時点で、後に特徴となる“カリプソ風のリフ”を含む楽曲の原型はすでに完成していた。つまりリズミックな曲つくりが彼の得意技になっていくのである。

19561119日、R&Bの巨人ファッツ・ドミノは『トップ・スターズ・オブ・1956』ツアーの一環として、オタワのホッケー場「オタワ・オーディトリアム(Ottawa Auditorium)」で公演を行った。ファッツ・ドミノは1950年代から60年代初期にかけて、アメリカで最も成功した黒人アーティストの一人であり、代表曲「Blueberry Hill」は日本でも広く知られ、ジェリー藤尾が歌ってヒットしたことでも記憶している。

この公演の楽屋に、若きポール・アンカは父親の人脈や地元興行関係者の協力によって入り込むことができた。そこで彼は、完成したばかりの『ダイアナ』をピアノで弾き語りし、ファッツ・ドミノに直接聴かせたのである。ファッツはその才能を認め、「この曲を売るならニューヨークへ行け」と強く勧めたと伝えられている。この行動力は、彼が単なる“歌の上手い少年”ではなく、後にプロデューサー的視点を持つ音楽家へ成長する素質を示していた。

ポール・アンカの自叙伝では、1957418日にオタワでファッツ・ドミノに会い、その直後にニューヨークへ渡ったと記されているが、タイムラインから見れば、これはポールの記憶違いである。520日のRCAスタジオでの録音に向け、様々な課題をクリアすべく奮闘していた時期だからである。 

19574月、父親から渡された500ドルを持ち、国際列車で単身ニューヨークへ渡る。

19575月初め、ポール・アンカは新興レーベルであったABC-Paramount社を訪ね、受付で何時間も粘った末にA&R責任者ドン・コスタとの面会にこぎつけた。そこでアンカは『ダイアナ』を演奏し、コスタに直接聴かせたのである。

そのオーディションの結果、コスタはアンカの才能を即座に見抜き、

「両親を呼べ。契約する」

とその場で言った――とアンカ自身が自叙伝に記している。

 

19575月中頃、未成年であるポールの国際的な権利、カナダからアメリカへの資金移動、著作権、原盤権などを、両親を呼び寄せて折衝して、法的整備を行った。

1957520日、ABC-Paramountは、当時自社スタジオを持たなかったため、外部スタジオであるRCA Victor Studioを借りて、“ダイアナ”は録音された。コスタは莫大なスタジオ費用とプロの演奏家という資本を一気に投入して、レコーディングを素早く完了させた。アレンジと指揮はドン・コスタ自身が担当し、録音はモノラル方式で行われ、原盤権は ABC-Paramount が保有した。

 

当時、ポール・アンカはまだ15歳であったが、ドン・コスタ のアレンジのもと、ニューヨークの一流セッション・ミュージシャンが集結し、極めて完成度の高い録音が実現した。ロックンロールとカリプソを融合した独特のビート感が特徴で、この個性が世界的ヒットにつながった。

参加ミュージシャンは、

  •   リードギター:ジョージ・バーンズ、ジャズ・ギターの草分け
  •   リズムギター:バッキー・ピザレリ、7弦ギターの名手としてカリプソ風リフを刻む

  •   ピアノ:アービング・ウェクスラー、軽快なバッキングで楽曲のノリを支えた。ニューヨークの一流スタジオ・ピアニスト
  •   ベース:ジェリー・ブルーノ、ラテン調のビートを支え、フランク・シナトラのバックも長年務めた名手
  •   ドラムス:パナマ・フランシス、スウィング・ジャズから初期ロックンロールまで幅広く活躍した伝説的ドラマー、レイ・チャールズやプラターズの録音にも参加
  •   バッキング・ボーカル:アーティ・リップ、ポール・アンカの背後でコーラスを担当、のちに音楽プロデューサーとしてビリー・ジョエルを世に送り出した

”ダイアナ” の成功は、ポール・アンカの才能のみならず、録音を支えたセッション・ミュージシャンたちの高度な技術と、ドン・コスタの卓越したアレンジが結実した成果である。ニューヨークのトップクラスの職人たちが集結したことで、半世紀以上を経ても色褪せない名演が生まれたのである。

さらに、この録音は 1950年代後半におけるアメリカ音楽界の構造変化──すなわち、従来の“楽団所属ミュージシャン”中心の制作体制から、録音の都度スタジオに呼び集められる“独立系セッション・ミュージシャン”が主役となる体制へと移行していく時代を象徴する出来事でもあった。

この録音は ドン・コスタの力量に負うところが大きく、ABC-Paramount が彼に寄せていた期待の大きさ、そして会社として本格的にポール・アンカを売り出そうとする強い意思を示すものでもあった。

 

195772日、『ダイアナ』はシングルとして発売され、アンカの16歳の誕生日直後にビルボードや全英チャートで1位を獲得した。最終的に全世界で2,000万枚以上を売り上げるメガヒットとなり、アンカはティーン・アイドルの象徴となった。

しかし、ここまで順調にスターへの階段を駆け上がった理由は、単なる幸運や偶然だけでは説明しきれない。シナトラのケースと同様に、アンカにも“成功の軌跡”と呼ぶべき必然があったのではないか。そう思わせるだけの戦略と環境が、若き日の彼の周囲には確かにあったことが推測される。表に出ている情報だけでは見えてこない背景があるはずである。ここではそのストーリーを描き出してみたい。

まずは、確実に確認できる事実からもう一度整理しておこう。

1956年(1415歳)

父親が経営する高級レストラン「ロカンダ」で手伝う。

1956年秋(15歳)

『ダイアナ』を作曲する。

19561119日(15歳)

ファッツ・ドミノがツアーでオタワに来訪、ポール・アンカの。『ダイアナ』のピアノ弾き語りを聞き、「すぐにニューヨークへ行け」と強く勧められ、アンカは決意を固めた。

19574月頃(15歳)

父親から渡された500ドルを持ち、国際列車でニューヨークへ向かう。

19575月初め

新興レーベル「ABCパラマウント」を訪ね、A&R責任者ドン・コスタに面会。『ダイアナ』の演奏を聴いて、即、コスタは契約のため父親を呼べと言った。

19575月中頃

未成年であるポールの、カナダからアメリカへの移動に伴う国際的な権利(著作権、原盤権)などについて、両親を呼び寄せて法的な折衝

1957520

ニューヨークのスタジオにて、ドン・コスタの指揮・編曲のもと『ダイアナ』の録音

19577

『ダイアナ』が発売され、全米・全英で1位を獲得。世界で900万枚を超える歴史的ヒットとなり、ポール・アンカは一夜にしてトップスターへと躍り出た。

これらから分かるように、ファッツ・ドミノから背中を押されてわずか8か月で世界的大スターに登ったのである。いかに変化の激しい芸能界とはいえ奇跡としか思えない。果たして奇跡だったのか、この行間を探ってみたい。

 

まず、大スターであるファッツ・ドミノの演奏ツアーにおける役割や構造を推しはかるために、松尾芭蕉の『奥の細道』を参照し、その旅が持っていた意味を考えてみたい。一般には、芭蕉が諸国を歩きながら俳句を作ったという牧歌的な旅の印象が流布している。しかし、この旅を芭蕉による出版・文化事業としての巡遊と捉えると、その性格は大きく異なって見えてくる。

旅の構想自体は芭蕉が立てたとしても、実際の行程管理や日程調整は随行した門人・河合曾良が担い、詳細な記録と計画に基づいて進められたと考えられている。どこにいつ到着し、どこに宿泊するかといった基本的な旅程に加え、滞在先で地元の有力者――いわゆる旦那衆、富裕層、あるいは大名家関係者との面会や交流の場を整えることが重要であった。曾良が事前に各地へ連絡を回し、句会などを催すことによって、富商や門人が宿や食事を無償で提供することで、旅費は大幅に節約されていた。

こうした場では、単に援助を受けるだけでなく、芭蕉が諸国の情報を語り、逆にその土地の文化や事情を聞き取るという双方向の情報交換が行われた。また、地元側にとっては、自らの土地を題材にした句を芭蕉に詠んでもらうことが大きな名誉であり、そのために芭蕉の訪問の機会や時間を確保しようとする働きもあったと推測される。

このように、旅程は各地の門人や支援者との連絡を通じて綿密に調整され、最終的には『奥の細道』として京都の井筒屋庄兵衛から出版されるという明確な文化的・商業的成果につながっていた。つまり、芭蕉の旅は単なる風流の放浪ではなく、広域的な文化ネットワークを構築しながら作品を生み出す、当時として高度に組織化されたプロジェクトであったといえる。

 

「奥の細道」で描かれたような旅でのできごとは、当時の大スターであるファッツ・ドミノのツアーでも起こり得た。ファッツ・ドミノ自身が旅程や宿泊を手配することはなく、所属事務所やマネジャーが各地のプロモーターと連携して日程を組む。ツアーは数か月に及ぶ全米規模の長期興行となることも多く、各地では地元の名士や実業家が受け入れの中心となった。

特に高級レストランの経営者は、コンサート後のパーティ会場を提供し、地元の有力者を集めて交流の場をつくることができるため、ツアーミュージシャンにとって重要な存在だった。そこではニューヨークやシカゴなど大都市の最新情報から芸能ゴシップまで、外の世界の話題が自然と共有された。

オタワでは、ポール・アンカの父親が経営する高級レストランがミュージシャンの社交場として機能していたと考えられる。父親が仲介役を務め、息子の才能を自慢することもあっただろう。インターネットもSNSもない時代、こうした場での交流こそが最大の情報源であり、とりわけ評判の情報は人づてに広まった。

 

ファッツ・ドミノのようなツアーミュージシャンは、単に音楽を届けるだけの存在ではなかった。各地を巡り歩くことで、そこで得た最新の音楽事情や噂を次の土地へ運ぶ「情報の配達人」としての役割も果たしていた。地方で生まれた優れた歌手の評判が大都市へ伝わり、レコード会社がスカウトに動く――その典型例は日本にも多く見られる。九州の長崎で評判を得た前川清の噂が東京に届き、音楽関係者が動いた事例などがその一つである。

こうした情報ネットワークの中では、「オタワにポール・アンカという才能ある若い歌手がいる」という話が、想像以上の速さで広まったと考えるのが自然である。録音機材を持ち歩けない時代において、風評こそが最も重要な情報源であり、音楽界を動かす力を持っていたのである。

ポール・アンカが作成したデモテープが、ツアーミュージシャンたちの情報ネットワークに乗ってABC-Paramountへ渡ったと考えることは、決して突飛ではない。そして、そのテープが同社の実力者であるドン・コスタの耳に届いたとしても不思議ではない。

その背景には、当時の音楽業界の事情が影響している。新興レコード会社であったABC-Paramountは、1956年にメジャーのRCAへ移籍したメンフィス出身のエルヴィス・プレスリーが、ファースト・シングル「ハートブレイク・ホテル」で初の全米No.1を獲得し、テレビという当時最も新しい媒体を駆使して全米にエルヴィス旋風を巻き起こした状況を、間近で見ていた。RCAが若い才能を発掘し、強力なプロモーションで一気にスターへ押し上げる姿は、ABC-Paramountにとって大きな刺激であり、若い才能の情報には特に敏感であったと推測される。

こうした環境を踏まえれば、アンカのデモがABC-Paramountに届き、ドン・コスタがそれを評価するという流れは、十分に現実味をもって理解できるのである。

 

日本でも、似たような現象は1960年代初頭に起こっていた。すでにメジャーであったビクターは橋幸夫を擁し、吉田正による股旅歌謡という確立した路線で大きな人気を得ていた。一方、当時新興レーベルであった東芝レコードは、橋とはまったく異なるタイプの若いスターを求めていた。

坂本九は当初ビクターに所属していたが、目立った成果を上げられず、東芝へ移籍することになった。東芝は彼を橋幸夫の股旅歌謡とは対照的な、新しいポピュラー音楽の担い手として売り出し、1961年に「悲しき六十才」でデビューさせた。これは、既存の演歌・歌謡曲とは異なる軽快なポップス路線であり、当時の日本の音楽市場では新鮮な試みであった。

その結果、ファンは橋幸夫を支持する層と、坂本九の新しいポップスを支持する層に分かれ、両者は競い合うように人気を高めていった。既存の大手レーベルと新興レーベルが、それぞれ異なる音楽ジャンルで若いスターを育て、互いに市場を拡大していった構図である。

こうした日米の動向を並べてみると、ほぼ同時期に両国で「新しい若い才能をめぐる競争」が生まれていたことがわかる。これは、まさしく世界的にティーンエイジャー文化が台頭し、若者の嗜好が音楽市場を動かし始めた時代の風潮を象徴しているといえるだろう。

 

ドン・コスタがポール・アンカの録音テープを事前に聴いたことは疑いない。しかし、録音テープだけでデビューを決定することはできない。歌唱力の評価は重要であるが、それ以上に、ルックス、好感度、存在感など、当時のティーン市場に受け入れられるかどうかを総合的に判断する必要があった。ポール・アンカ自身も背の低さや、褐色の顔色をかなり気にしていたほどである。ニューヨークでの面談は、まさにその「実物の見極め」を目的としたものであったことは疑いない。

 

注目すべきは、面談後の動きの速さである。マーケティングの実務において重要なのは、Goサインが出た直後の準備、すなわちレディネスの確保である。市場投入のタイミングは待ってくれず、競合に奪われる前に契約を固め、迅速にデビューへと持ち込む必要がある。ポール・アンカの場合も、他社に取られないように、コスタが早期に囲い込みを図ったとみるのが自然である。

 

「デビュー前の周到な準備」という点では、五木ひろしの再デビューのエピソードが典型例である。一般には、五木ひろしが『全日本歌謡選手権』で10週勝ち抜き、審査員であった山口洋子と平尾昌晃が楽曲を提供してデビューした、と語られる。しかし、実際にはより戦略的な背景があったとされる。

山口洋子のクラブ「姫」で、五木ひろし(当時:三谷謙)が歌を披露し、その才能を山口が高く評価したという逸話が残っている。山口は彼を『全日本歌謡選手権』に送り込み、自ら審査員として成長を見守り、平尾昌晃とのコンビで楽曲を準備し、10週勝ち抜いたタイミングでその曲を用いてデビューさせる――こうした「事前に描かれたシナリオ」が存在したと業界関係者の間も語られていた。さらに、メジャーではなく、山口洋子の影響下にあるミノルホンレーベルからデビューさせたことも間違いない。

このような「デビュー前の周到な準備」は、ドン・コスタのケースにも重なる。コスタは録音テープを聴いた段階で、すでにデビューの構想を描き、以下のような必要となる制度的・実務的手続きについても、頭の中で明確なルートを組み立てていたと考えられる。 つまり、ニューヨークでの面談は単なる「才能の確認」にとどまらず、すでに動き始めていたデビュー計画の最終チェックとして位置づけられていた可能性が高い。

  •   会社としての投資承認
  •   カナダから米国への移籍に伴う法的手続き
  •   録音スタジオの予約
  •   スタジオ・ミュージシャンの手配
  •   レコード製造の段取り
  •   販売キャンペーンの企画
  •   流通網への事前連絡
  •   デビュー時のイメージ戦略の策定 

とりわけ、デビュー時のキャラクター設定は、テレビが普及し始めた当時、極めて重要な要素だった。年上の女性への恋心を歌う『ダイアナ』という楽曲が、ティーン層に「かわいらしい少年アイドル」として受け入れられるかどうかは、慎重に見極めるべき判断材料だったのである。 エルヴィス・プレスリーの野性味や、パット・ブーンの清潔感とは異なる、愛らしいティーンエイジ・アイドルとしてのポール・アンカ像をいかに構築するか――その点が、デビュー戦略の中心として検討された。

また、15歳のカナダ人少年が、ニューヨークの巨大レコード会社ABCパラマウントと契約し、世界市場へ向けてデビューする――。表面的にはシンデレラストーリーであるが、その裏側では、当時のアメリカ特有の制度的障壁を突破するための膨大な法務・行政手続きが同時並行で進められなければならない。

ハリウッドやニューヨークの芸能産業では、未成年者の収入を親が使い込むことを防ぐため、厳格な未成年保護法(通称クーガン法)が適用されていた。レコード会社は未成年本人と直接契約することはできず、契約内容は最終的に地方裁判所へ提出し、リーガル・レビューを経て承認されなければならない。この段階で、親側にも専属弁護士がついていなければ、契約は「不当な搾取」として無効化されるリスクが高かった。

またカナダ籍の未成年がアメリカ国内で商業録音を行い、そこから発生する印税を受け取るためには、移民局・IRSの厳しい審査を通過する必要があった。二重課税を避けるための国際税務書類、合法的な就労資格(アーティスト・ビザ)の取得など、国際弁護士が即時に動かなければならない。これは単なる事務処理ではなく、巨額の商業活動を前提とした高度な法務オペレーションであった。

さらにニューヨークのスタジオ・ミュージシャンは、アメリカ音楽家連盟(AFM)という強力なユニオンに守られていて、素性の分からない外国人の未成年をスタジオに入れる場合、最低賃金、労働時間、演奏者の権利など、ユニオン規定に少しでも違反すればストライキや録音差し止めが行われるかもしれない。これに適合して録音セッションを実施するための裏方作業が、A&Rの重要な職務であった。

 

そして、十五歳の無名の少年が見知らぬ土地で巨大資本と契約を結ぶには、リスクを最小限に抑えるためにも、信頼のおける血縁の支えを頼ることが不可欠だった。ゆえに、この面談にポール・アンカの父親が深く関与していたことは疑いようがない。 面談が成功すればデビューにつながる可能性は高く、コスタが「すぐに父親を呼べた」と語った背景には、すでに彼の頭の中でデビューまでのシナリオが描かれ、その実現に向けた調整作業まで想定されていたと考えられる。 面談は、その成否を左右する重要な最終局面であり、父親もまた、それに臨むだけの覚悟と心構えを固めていたに違いない。

アンカ家は、巨大資本との契約に対抗するため、専属の弁護士を雇い、 「この条項は受け入れられない」 「著作権分配率を上げるべきだ」 「将来の契約解除条件を盛り込むべきだ」 といったリーガル交渉を有利に進める必要があった。レコード会社側の契約書は、常に「会社の利益を最大化する文言」が初期設定として提示されるため、親族側による法的防御と交渉は不可欠である。

十五歳の少年が巨大資本と契約を結ぶにあたり、父親の存在は単なる付き添いではなく、少年を守るためのガバナンスそのものだった。父親がオタワからニューヨークへ赴いた背景には、「もし契約交渉に失敗すれば、オタワのレストランという一家の全財産を失い、生活基盤が崩れかねない」という強い危機感があったと考えられる。これは決して誇張ではない。 中東からカナダへ移住し、さらにニューヨークで巨大資本と契約を結ぶという行為は、安定した国内社会で暮らす私たち日本人には想像しがたいほど、環境変化へのリスクに敏感であって当然である。移民として新天地で事業を築く者にとって、契約書の一行の文言や権利の1%たりとも軽視できない。将来の致命傷になり得るからこそ、譲れない場面では絶対に引かない。まさに、これは一つのディールであった。

ポール・アンカのニューヨーク進出を実質的に支えたのは、叔父モーリス・アンカ(Maurice Anka)を中心とする家族である。彼らはアンカの最初のマネジメントを担い、少年を巨大なショービジネスの世界へ送り出すための基盤を整えた。「最初のマネジャーが家族である」という構造は極めて合理的だ。インフラも実績もない十五歳の少年が、複雑で利害が錯綜する芸能界に飛び込むとき、裏切りや搾取のリスクを最も低く抑えられるガバナンスは、形式的な契約よりも、むしろ血縁という強固な信頼関係である。家族が前面に立つことで、少年は最低限の安全と交渉力を確保できた。

「一族の代表としてこの天才少年を中央へ送り出そう」と決断した家族は、最初のベンチャーキャピタリストであり、同時にマネジメント組織でもあった。「自分でリスクを背負い、自分で交渉する」「家族の看板を背負い、身内でガバナンスを固めて敵地に乗り込む」という強烈な当事者意識は、中東系移民の経営者に特有の強さでもある。最初から背負っている覚悟の重さが違うのである。

 こうした家族側の覚悟と制度的準備を見通したうえで、ドン・コスタはポールの歌を聴いた瞬間に「両親を呼べ、契約する」と即断した。これは単なる感動の言葉ではない。彼は、ヒットが見込まれる新人を扱う際にどのような課題が待っているかを熟知していたがゆえに、才能を確認したその場で、合法的にシステムを動かすための第一手として、すぐに親を呼び、交渉を開始しようとしたのである。もしこの機会を逃せば、確実にビジネスチャンスは失われていたはずだ。面談は単なる「歌唱の確認」ではなく、すでに動き始めていたデビュー計画の最終チェックとして位置づけられていたのである。

 

今回の録音に際し、ABC-Paramountは自社スタジオを保有していなかったため、ライバル会社であるRCA Victorのスタジオを借用した。この事実に違和感を覚える向きもあるかもしれない。競合のRCAなど他社に録音内容が漏れるのではないか――私自身も当初はそう疑った。しかし、当時の大手レコード会社の組織構造を踏まえれば、その可能性は極めて低いと判断できる。

第一に、RCAのような大企業では、スタジオは「制作技術部門」が管理する施設であり、外部への貸し出しは商業的な運用として日常的に行われていて、貸出先が競合レーベルであっても、経営層や営業部門が利用者を逐一把握することはなく、情報共有されることもほとんどなかった。

第二に、スタジオ・ミュージシャンの側も、録音当日まで詳細を知らされないのが通常であった。1950年代のニューヨークのセッション現場では、ミュージシャンは指定された日時にスタジオへ入り、譜面を渡されて初めて「誰の録音であるか」を知るという運用が一般的である。したがって、録音企画の内容が事前に外部へ漏れる可能性は構造的に低かった。

第三に、録音計画そのものは、レーベル内部のA&R部門・アレンジャー・制作担当者の間で完結しており、RCAのスタジオがABC-Paramountの録音を受け入れたとしても、それは単に「予約された枠を提供する」という業務に過ぎず、その録音が「新人ポール・アンカのデビュー・セッション」であることを、RCAの経営層や他部署が知ることはできなかった。

以上の点から、ABC-ParamountRCAのスタジオを借用したことは、当時の業界慣行から見ても不自然ではなく、録音計画が外部に漏れることはほぼなかったと考えられる。

 

結果として、コスタによるオーディションは成功し、面談を通過したことで、以後はコスタが描いたシナリオに沿ってデビュー準備を進めるだけとなったのである。

若きアンカと老練のコスタの歯車が、ここで静かに噛み合った。スタジオの扉はすでに開いており、譜面台には新しい物語が置かれていた。あとは、その音を受け取るだけである。コスタがタクトを振り下ろす、その瞬間が迫っていた。

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