第3章「マイ・ウエイ」へのシナトラの軌跡(2)転機のドラマ
私は、会社の営業職から大学教員へ、そして現在は公益的な仕事に携わっている。年齢を重ねてからの転身ということもあり、「華麗なキャリア」と言われることもある。外から見れば、順調で恵まれた人生に見えるのだろう。
しかし実際には、信頼していた組織や人に裏切られ、背中から撃たれるような経験も一度や二度ではなかった。思い返せば、心が折れそうになった場面は何度もある。それでも、そのたびに手を差し伸べてくれる友人がいて、私は決して孤独ではなかった。“I did it my way”。自分で選び、貫いてきた道は間違っていないと信じていた。「このままでは終わらない。必ず見返してやる」。そうつぶやいた瞬間が、次の扉を開く原動力になった。
フランク・シナトラは1940年代、「ザ・ヴォイス」と称され、アメリカ音楽界を席巻した。しかし1950年代初頭、その栄光は一変する。過労が原因で喉から出血し、一時的に声が出なくなるという深刻なトラブルに見舞われた。
「もうかつての美声は戻らない」とまで言われ、人気は急速に低迷する。さらに、エヴァ・ガードナーとのスキャンダルが追い打ちをかけ、映画の出演依頼も激減した。
1952年には、長年所属したコロムビア・レコードから契約を打ち切られ、エージェンシー(MCA)とも袂を分かつことになる。メディアはこぞって「シナトラは終わった」と書き立てた。こうした状況の中で、シナトラ自身も精神的に追い詰められ、自殺を考えるほど深刻な状態にあったと伝えられている。
しかし転機は予想外の形で訪れる。格安のギャラで、しかも主題歌も歌わずに出演した映画『地上より永遠に』(1953年公開)が大成功し、1954年にはアカデミー助演男優賞を受賞した。この成功で、シナトラは俳優としての実力を世に示し、奇跡的な復活を遂げた。
その前年、1953年3月、彼はキャピトル・レコードと最低限の条件で契約を結ぶ。ここでアレンジャーのネルソン・リドルと出会い、従来の甘いクルーナー唱法から、人生の深みを映し出す新しい歌唱スタイルを確立した。一般には、これが「どん底からの奇跡的復活」と語られている。これを聞けばシナトラは偶然にも運に恵まれた幸運な人生だったと思われても不思議ではない。
しかし私は、コロムビア最終録音の2曲とキャピトルでの最初の録音を聴き比べるうちに、「美声の限界」や「偶然の出会いによる復活」といった通説に疑問を抱くようになった。むしろシナトラは移籍前の段階で、新しい歌唱スタイルを自ら追求してかなりの完成度に達しており、キャピトル移籍はその延長線上に位置づけられるべきだと考えるようになった。
まず、時系列を整理する。
1952年9月17日(コロンビア最終録音)
(A) Why Try to Change Me Now(編曲:パーシー・フェイス)
(B) The Birth of the Blues(編曲:ヘンリー・ボー)
(楽曲クレジット:Columbia/Legacy)
1953年3月14日 キャピトルと正式契約
1953年4月30日(キャピトル初録音)
(C) I've Got the World on a String(指揮:ネルソン・リドル)
(楽曲クレジット:CAPITOL
CATALOG MKT (C92))
一般には (C) が「新しいシナトラの誕生」と語られる。しかし、3曲を続けて聴くかぎり、そこに劇的な断絶は見いだせない。(A) はバラードで、パーシー・フェイスによるドーシー楽団風のアレンジを背景に、従来のクルーナー唱法から渋みのある声へと変化している。公式クレジットには当時のコロムビアの音楽監督であるパーシー・フェイスの名が記されているが、実質的な音作りにはヘンリー・ボーら現場の職人的アレンジャーが深く関わっていたとされる。
一方 (B) はビング・クロスビーの名唱で知られる曲を、アップテンポのスイング感を強調したアレンジを背景に、シナトラはキャピトル期の「語るような歌唱」を実践している。ハスキーな声、翳り、語りかけるフレージング、ビハインド・ザ・ビート──これらはキャピトル期の特徴とされるが、すでにこの録音で完成している。 (C) は、ブラスを前面に出した(B) と同系統のスイング・アレンジで統一されており、歌唱スタイルも自然に連続している。
何より、声には張りがあり、時に艶さえ感じられる。かつてのような声が出なくなったため、美声に頼らない歌い方へ転換した、という説明は明らかに誤りである。むしろ、シナトラは確信をもって新しい声の使い方と歌い方を創り上げたのであり、その意図が録音の随所に表れている。つまり、キャピトル初録音はコロムビア最終録音の延長線上にある。この事実は、「ネルソン・リドルがシナトラを変えた」という通説を揺るがすものがある。
かつてのシナトラは、ビング・クロスビーの流れを汲む甘い声で、メロディを滑らかになぞるクルーナー唱法の代表だった。しかし転機の後には声に翳りが加わり、歌詞の一語一語を“話す”ように区切り、感情を直接届けるスタイルへと進化した。
とりわけ中低音の落ち着いたトーンから始まり、サビで高音へ跳躍し、ロングレガートで歌い切る、このダイナミクスが聴き手を揺さぶる。そして規則的なリズムよりわずかに遅れて歌うビハインド・ザ・ビートがスイング感を生み、物語の山場をつくった。さらに転調によって感情の変化を効果的に表現した。
聴衆は、もはや若い女学生ではない。社会の中で働き、笑い、涙を流しながら日々を生きている大人たちだ。シナトラは、そんな彼らの心にまっすぐ語りかける。
“Come fly with me”──「俺と一緒に飛び立とう」
“So drink up, all you people”──「みんな、俺のおごりだ。だから、俺のバカげた話を聞いてくれ」
こうした呼びかけこそが、シナトラの歌の世界であり、彼が目指したスタンダード・ミュージックそのものなのだ。
これらの唱法は、キャピトル移籍後に突然生まれたものではない。すでにコロムビア時代の末期には、ほぼ完成していたのである。
(B) の編曲者 ヘンリー・ボー
は、長く過小評価されてきた人物だ。トミー・ドーシー楽団で活躍したマルチ・リード奏者であり、シナトラとは旧知の仲でもある。キャピトル移籍後は、ネルソン・リドルやビリー・メイのオーケストレーターとして、ネルソン・リドルの「設計図」を正確にスコアへ落とし込む職人的存在だった。
この視点から見ると、(B) のアレンジは単なるコロムビア時代の延長ではない。ブラスを強調した、カウント・ベイシー風のスイング色の濃い要素を積極的に取り入れている点が特徴的だ。
さらに (C) では、エリントン楽団で用いられた、トランペットやトロンボーンにゴム製弱音器を当てて手で開閉するワウワウ効果まで採り入れている。
つまり、これらの要素はネルソン・リドルが突然生み出したものではない。シナトラがヘンリー・ボーとともに (B) で試みていた新しいスイング感を、ネルソン・リドルがさらに洗練させて提示した結果が(B)なのである。実際、(B) と (C) のアレンジの構造は驚くほど近い。
また細かな点だが、(C) の楽曲クレジットに編曲者名が記載されていないことにも注目したい。ウィル・フリードワルドの著書「SINATRA! THE SONG IS YOU: A SINGER'S ART」(1995年)によれば、当時のセッションログや初期プレスのLP/SPの記載から、実際にはヘンリー・ボーとネルソン・リドルの共同制作であった可能性が高いという。しかし移籍直前という微妙な時期であったことを考えると、コロムビア側を刺激しないために、あえて編曲者名を伏せたと考える方が自然だろう。
この3曲から受けた私自身の印象と、それに付随する状況証拠を踏まえれば、シナトラと彼を支えた“シナトラ軍団”が、シナトラの理想を実現するために周到に仕組んだ一つの移籍ドラマとして捉えることができる。ウィル・フリードワルドの著書の知見を参照しつつ、その背景を組織と戦略の観点から考察してみたい。
まず、これらの状況を総合すれば、シナトラの移籍は「偶然」ではなく、明確な「戦略」に基づく必然であったと理解できる。彼がコロムビアの提示した安易な企画を拒んだという逸話はよく知られている。当時、伝統的な巨大組織であったコロムビア、とりわけポップ部門を率いたミッチ・ミラーが目指していたのは、ラジオやジュークボックスで瞬間的に消費される「売れ筋のシングル曲」を大量生産するビジネスモデルだった。そこでは歌手は組織の消費されるパーツに過ぎない。
しかし、シナトラ自身はアイドル的イメージから脱却し、「大人のための歌手」へと転身することを望んでいた。彼はすでに、1950年代の到来とともに、全く新しいエンターテイメントの在り方、すなわちプラットフォームの創造を見据えていた。したがって、企業側との溝が埋まらなかったのは当然であった。古いシングル量産モデルにしがみつくコロムビアに見切りをつけ、新興レーベルで柔軟な制作体制を持つキャピトルへ軸足を移す、それはシナトラによる自ら選んだビジネスプラットフォームであったといえる。
そもそも、一度ヒットした歌手が“アイドル的イメージ”を脱却することは、音楽業界では常に大きな課題である。日本でも、アイドル歌手がそのイメージから抜け出すのに苦労し、成功する者もいれば、転換に失敗して姿を消す者もいる。脱アイドルとは、歌手にとって極めてリスキーな戦略転換なのである。
また、この業界ではレコード会社の移籍にはトラブルがつきものである。たとえばマイルス・デイヴィスでさえ、コロンビア移籍の際にプレスティッジとの契約が残っていたため、わずか2日間で約4枚分(25〜26曲)を一気に録音した、いわゆる「マラソン・セッション」がよく知られている。
こうした前例を踏まえると、シナトラが1952〜1953年という短期間で移籍を実現できた背景には、周到な準備と水面下のドラマが存在したと考える方が自然である。
ここで重要なのが、現場スタッフの存在である。芸能界では、利益や目先のヒットを重視する経営層と、芸術性や将来性を見据える現場スタッフの意見が食い違うことは珍しくない。もしコロムビア内部にシナトラの真の狙いを理解する人物がいたなら、彼を埋もれさせないために移籍を後押しした可能性は十分にある。またキャピトル側にも、シナトラを高く評価するスタッフが存在し、両者が水面下で連携し、シナトラを支える“シナトラ軍団”を形成していたとしても不思議ではない。
コロムビア側にいた“シナトラ軍団”は、経営陣の承認を得やすいよう、あえて従来路線を踏襲した企画を提示し、新しいシナトラ像を隠したまま最終的な録音を進めることで企画を通したとも考えられる。同時に、強く引き止めるような動きを避け、移籍への道を妨げないよう配慮した可能性もある。
一方、キャピトル側の“シナトラ軍団”は、社内の反対派を封じ込めるため、あえて最低限の契約条件を提示し、移籍を迅速に成立させたとみられる。さらに、キャピトルでの最初の録音にはコロムビアからの“監視役”が立ち会っていたとされるが、その人物も実はシナトラ軍団の一員だったと伝えられている。
通説では「落ち目のシナトラをネルソン・リドルが再生させた」と語られることが多い。しかし録音の実態、編曲者との関係、そして歌唱技法の変化を総合すると、むしろ逆ではないだろうか。シナトラはコロムビア末期の段階ですでに新しいスタイルを完成させており、そのスタイルを最も的確に具現化できるアレンジャー、音楽監督としてネルソン・リドルを求めたのである。その橋渡し役となり、両時代をつないだのがヘンリー・ボーであった。
こうした経緯を踏まえれば、移籍は偶然ではなく、シナトラ自身が描いた明確な戦略の結果であったと理解できる。1952年の『The Birth of
the Blues』は、まさしく「新しいシナトラの誕生(Birth)」を象徴する録音として再評価されるべきだ。
シナトラはこう語ったとされる。
“Wait and see. I'm going to be the biggest
thing that ever happened.”
(見ていろ。俺はこれから、かつてないほど巨大な存在になってやる)
これは虚勢ではない。彼は新しいスタイルを自ら設計し、仲間を集め、環境を整え、移籍を仕掛けた。偶然に頼った受動的な「再生」ではなく、能動的な「自己再構築」であった。おそらく勝利を確信していたに違いない。
こうして環境を整えたシナトラは、キャピトルという新たな新天地で、音楽ビジネスの歴史を塗り替える前代未聞の戦略――のちに「コンセプト・アルバム」と呼ばれる、全く新しい市場を見据えた音楽領域の構築へと突き進んでいった。
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