第4章「マイ・ウエイ」へのシナトラの軌跡(3)1950年代のイノベーション
おそらく中学三年のころ、伊勢佐木町にあった横浜ピカデリーで「アラビアのロレンス」を観た。主人公ロレンスが指先の炎を息で吹き消すと、次の瞬間には灼熱のアラビア砂漠が大画面いっぱいに広がった。さらにロレンスが「ダマスカス」と叫びながらラクダで砂漠を疾走する場面では、劇場全体を揺らすような大音響が響きわたり、映画というものがここまでの迫力を持ち得るのかと圧倒された。
高校に進むと放送部に入り、音楽番組を担当した。夏のNHK高校放送コンテストに出場するための番組制作にも取り組んだ。マントヴァーニ・オーケストラの二曲を挟みつつ、ロス・インディオス・タバハラスのギターによる「スターダスト」を背景に、星座神話のナレーションを重ねた。録音再生三ヘッドのオープンリールデッキを使い、人工的に残響を加える実験を行した。そうした印象的な番組構成が評価されたのか、上野文化会館で行われた全国大会で音楽部門で全国一位を獲得することができた。
同じ年の秋には、ブロードウェイから「ウエストサイドストーリー」の来日公演があった。なぜか懸賞に当たったのか、日生劇場で目の前に広がる舞台を観る機会に恵まれた。タップの音が客席にまで響き、舞台芸術の生の迫力に息をのんだ。
1963年から64年というわずかな期間に、映画、音響、そしてステージの最先端が一気に押し寄せ、劇的な変革を直接体験した貴重な期間だった。
そのちょうど十年前、シナトラを中心として映像と音響の技術革新をもとに、映画とレコード、さらにはステージ芸術のイノベーションが起こっていた。そのことを当時は知る由もなかったが、自分がその成果を十年後にまさに体験していたのだと思うと、奇妙な縁を感じずにはいられない。
1950年代という時代は、エンターテインメントの歴史において、単なる流行の移り変わりでは説明できない巨大な地殻変動が生じた10年間であった。映像と音響の両面で技術革新が同時多発的に進行し、それまでの音楽産業を支えてきた様々な構造が変わりエンターテイメントにおいて劇的なイノベーションが起こったといってよい。やがて、世界のエンターテイナーとして君臨する「帝王」となったのが、フランク・シナトラである。
1953年から54年の間、まさに、「どん底からの奇跡的復活」を果たしたシナトラは、あたかも空白の期間に書いたシナリオを実行しているかのようだった。
まず、キャピトル・レコードでの黄金期といわれる。
アレンジャーのネルソン・リドルらと組み革新的なアルバムを次々と発表した。
1954 年 1 月 『Songs for Young Lovers』(指揮:ネルソン・リドル、米国 3 位)キャピ
トル移籍第一弾
1954 年 8 月『Swing Easy!』(指揮:ネルソン・リドル、米国 3 位)
1955 年 4 月『In the Wee Small Hours』(指揮:ネルソン・リドル、米国 2 位) 哀愁と孤
独をテーマにしたコンセプト・アルバムの最高峰
1956 年 3 月『Songs for Swingin' Lovers!』(指揮:ネルソン・リドル、米国 2 位)シナト
ラの代名詞ともいえるスウィングの傑作
1957 年 1 月 Close to You(指揮:ネルソン・リドル、米国 5 位)
1957 年 6 月 A Swingin' Affair!(指揮:ネルソン・リドル、米国 2 位)
1957 年 9 月 Where Are You?(指揮:ゴードン・ジェンキンス、米国 3 位)
1957 年 9 月 A Jolly Christmas from Frank Sinatra(指揮:ゴードン・ジェンキンス、
米国 18 位)
1958 年 1 月 Come Fly with Me(指揮:ビリー・メイ、米国 1 位)
1958 年 9 月『Frank Sinatra Sings for Only the Lonely』(指揮:ネルソン・リドル、米国
1 位)最高のジャズ・ヴォーカルと評される
1959 年 1 月 Come Dance with Me!(指揮:ビリー・メイ、米国 2 位)
1959 年 7 月 No One Cares(指揮:ゴードン・ジェンキンス、米国 2 位)
1960 年 7 月 『Nice 'n' Easy』(指揮:ネルソン・リドル、米国 1 位)キャピトルでの最後
の大ヒット作
この年に自身のレーベルである「リプリーズ・レコード」を設立。
そして、映画俳優としての成功である。歌手活動と並行して、数々の名作映画に出演し俳優としての評価も決定づけた。
1955年: 映画『黄金の腕』で麻薬中毒患者を熱演し、アカデミー主演男優賞にノミネート、
1957年: 映画『上流社会』や『夜の豹』に出演し、ゴールデングローブ賞(ミュージカル・コメディ部門)を受賞。
そして、ラスベガスでのステージショーである。
1953年10月に、ラスベガスの「サンズ・ホテル」で舞台デビューを果たし、定期公演を行うようになった。後に自身もホテルの株式を購入し、自身のグループ「ラット・パック」の中心メンバーとしてラスベガス黄金期を牽引した。
1960年代には、シナトラやディーン・マーティンらが出演した代表的な犯罪コメディ映画『オーシャンズ11』がサンズ・ホテル等で撮影され、一大ブームを巻き起こした。
まさに怒涛の進撃である。
多くの解説では、映画『地上より永遠に』の成功、とりわけアカデミー助演男優賞の受賞がシナトラ再起の決定的契機であったとされる。そして、その役を得るために、起用に消極的であった映画会社社長へ執拗な働きかけを行ったと語られる。また「ゴッドファーザー」の一件になぞらえ、マフィアの力を借りて脅したという揶揄すら存在する。
しかし、当時のシナトラの苦境を私たちが正確に知る術はなく、風評や報道、憶測に依拠するしかない。とはいえ、例えば日本では、暴力団関係者との交際が発覚した島田紳助が2011年に即日引退に追い込まれた例を見ても、反社会的勢力に再起を依頼するなど逆効果でしかないことは明らかである。したがって、マフィア依頼説は全く現実性を欠く。
では、シナトラはなぜそこまで必死に役を得ようとしたのか。一般的には、甘い声のアイドル的イメージを払拭し、「孤独と哀愁を背負った成熟した大人の男」へとブランドを再構築するためであったと説明される。芸能界への返り咲きのための最後の「一発逆転」であったという解釈もある。そして結果として、この役でアカデミー助演男優賞を受賞したことが、キャピトル黄金期へと続く「シナトラ・ルネサンス」の号砲となったと語られている。
しかし、この物語は結果から逆算して作られた通説にすぎない。そもそも脇役でアカデミー賞を狙うなど現実的ではなく、作品自体も娯楽性に乏しい社会派リアリズム映画であり、予算も少なく、受賞運動を展開できる状況ではない。興行的成功も期待しがたい。私自身も最近この映画を通して観たが、地味な作品であり、ハリウッドの審査員が社会派作品を好む時期であれば受賞の可能性はあるにせよ、当てにできるものではない。したがって、この通説は少なくとも私を納得させるものではない。
さらに、この映画の撮影は1952年12月から翌年1月にかけてハワイで行われたとされる。であれば出演交渉は1952年春から夏頃であろう。この時期はコロムビア在籍末期であり、移籍を模索しつつ、シナトラ軍団とともに新しいシナトラ像を構築し始めていた時期である。そんな重要な転換期に、歌手としての再生に集中せず、成功の見込みが乏しい映画出演に「一発逆転」を賭けるだろうか。合理的に考えれば、その可能性は低い。
もちろん、当時の妻であり強い影響力を持っていた大女優エヴァ・ガードナーが、映画会社首脳やハリー・コーンの妻に働きかけたという話は、おそらく事実であろう。しかし、それはシナトラ自身がこの役に固執した理由にはならない。
シナトラには、合理的な戦略家としての側面と、感覚的な表現者としての側面が共存している。彼がこの役に強く執着したのは、合理性を超えて「表現者としての衝動」が前面に出た結果であったと私は考える。
当時のシナトラの心境を私たちが正確に知ることはできない。しかし、たとえば現在の日本で逆境に置かれた芸能人の典型として、元SMAPの中居正広を思い浮かべてみると理解しやすい。もし私が彼に助言するとすれば、マンションに閉じこもって嵐が過ぎるのを待つより、あるいは記者会見で弁明するよりも、むしろこの空白の時期にこそ自分が本当にやりたかった芸を磨き、どんな小さな舞台でもよいから実力を示し、観客をうならせてみろ――そうすれば多くの批判は自然と静まるかもしれない、ということである。
シナトラもまた、この逆境の空白期間に同じような思索を深めたのではないだろうか。本当に歌いたい歌は何か。本当に演じたい役は何か。そう自問し続けた結果、「大人の歌手」としての方向性を見いだし、それがキャピトルでなら実現できると判断して移籍を決断したのである。
さらに、この空白期に読んだジェームズ・ジョーンズの原作小説の中で、イタリア系兵士アンジェロ・マジオというキャラクターに、どん底にあった自分自身を強く重ね合わせた。「この役は自分のために書かれたものだ。どうしても演じたい」——そう確信したシナトラは、制作元であるコロムビア・ピクチャーズに対し、執念ともいえる猛烈なアピールを続けた。
もし彼を突き動かしたものが、このような切実な自己再生への意志であったとすれば、その行動はきわめて自然であり、むしろ必然であったと理解できる。
すなわち、彼の選択は合理的判断よりも、「自分は何を表現したいのか」「何を実現したいのか」という根源的な欲求の追求が原動力になっていたのである。
さらに、これはあくまで私見だが、実務の世界では「困難な局面や変化の激しい時期こそ現場に行き、その空気を感じてこい」と教えられたものだ。シナトラにとっても、1950年代の映画界で進む技術革新のただ中に身を置き、その変化を肌で感じたいと思ったとしても不思議ではない。こうした“動物的な勘”こそ、職人としてのシナトラの真骨頂である。
では、なぜ音楽スタジオではなく映画の現場だったのか。ここで忘れてはならないのは、当時、レコード技術よりも映像技術のほうが先に進化していたという事実である。映画では、サウンドトラックによる音声と映像の同期化が進み、さらにサウンドトラックのマルチチャネル化やステレオ録音・再生によって、オーケストラが映像を包み込むような豊かな音響表現が実現していた。
1930年代末から50年代にかけて、映画の映像技術と音響技術が飛躍的に発展し、映画音楽の役割は大きく拡張した。その中心にいたのが『風と共に去りぬ』(1939年)の作曲家マックス・スタイナーである。彼は後期ロマン派の壮大なオーケストレーションと、ウィーン伝統の豊かな弦楽器の響き、力強い金管の表現を駆使し、物語の情景や感情を音楽で劇的に描き出した。さらに、登場人物の動作や感情の揺れに音楽を精密に同期させる手法を確立し、劇伴が映画の感情を牽引するという、ハリウッド映画音楽の基本形を築き、「ハリウッド映画音楽の父」と呼ぶべき存在であった。
私はマーラーの交響曲を改めて全曲聴き直すうちに、マーラーこそがハリウッド映画音楽の源流ではないかと考えるようになった。実際、ナチスの迫害を逃れてアメリカへ渡った多くの音楽家は、マーラーの影響を強く受けた世代であり、彼らは新天地でその音楽語法を発展させた。
しかし、彼らを待っていたのは、今度は朝鮮戦争期に高まったマッカーシズム、いわゆる「赤狩り」であった。政治的嫌疑によって職を失う音楽家も少なくなかった。そのような状況の中で、迫害や排除を逃れた作曲家たちが、自らの表現の場をハリウッド映画音楽に見いだしていったことは非常に示唆的である。
マーラー的な大規模オーケストレーションや情緒表現の手法が、こうした亡命音楽家たちを通じて映画音楽に受け継がれ、結果としてハリウッドのサウンドを形づくる重要な要素となったのである。
映画『地上より永遠に』の音楽を担当したジョージ・ダニングとモリス・ストロフは、1950年代のハリウッド、特にコロムビア映画において「赤狩り」と「スタジオ合理化」という激動期を支えた重要な音楽スタッフである。
ストロフはヨーロッパからの亡命作曲家を積極的に受け入れ、彼らの高度なオーケストレーション技術をスタジオに根付かせた功労者であった。
実際に映画音楽を作曲したダニングは、マックス・スタイナーが確立した濃厚なストリングスによる感情表現を基盤にしつつ、アメリカ的な哀愁を帯びた親しみやすいメロディを融合させた独自のスタイルを築いた。軍隊の乾いた暴力性と、ランカスターとカーのロマンティックな愛を対照的に描き分けるその手腕は、1950年代ハリウッド映画音楽の完成形の一つといえる。
映画『地上より永遠に』の試写で、シナトラはジョージ・ダニングの音楽、とりわけマジオの死後に響く「消灯ラッパ(Taps)」に強い衝撃を受けたと考えられる。その孤独で飾り気のないラッパの音は、若き日の恩人ハリー・ジェームスのトランペットを思い起こさせ、シナトラにとって最も原点的な響きだった。自分の死を悼む場面でその音が完璧に機能するのを聴き、彼は「この映画は成功する」と確信したに違いない。
さらに、ダニングの「音を削ぎ落とし、静寂で感情を際立たせる」手法は、シナトラがキャピトル移籍後にネルソン・リドルと築く“大人のジャズ”路線と深く共鳴していた。コロムビア時代の甘いストリングス中心のアイドル的スタイルから脱却し、より洗練された音楽へ向かうシナトラにとって、ダニングの劇伴はまさに新しい方向性を裏付ける「答え合わせ」だったのである。その後シナトラはダニングを高く評価し、1957年の主演作『夜の豹(Pal
Joey)』でも彼を音楽監督に起用した。
『地上より永遠に』の試写室で響いたあのラッパの音は、シナトラにとって「アイドル時代の自分の終わり」と「新しいシナトラの誕生」を告げる象徴的なファンファーレとなったのだ。
一般には、シナトラは『地上より永遠に』の成功をきっかけに“奇跡の復活”を遂げたと語られる。しかし、彼がこの役に執念ともいえるほどこだわった理由は、単なる再起の手段ではなく、表現者として「挑戦すべき役」だと直感したからである。すなわち、この出演は歌手活動への踏み台ではなく、役者として、そしてエンタテイナーとしての自己像を再構築するための決定的な機会であった。
空白期間に読んだジェームズ・ジョーンズの原作小説で、イタリア系兵士アンジェロ・マジオに自らの境遇を重ね合わせ、「この役は自分のために書かれた」と確信したシナトラは、制作元のコロムビア・ピクチャーズに猛烈なアピールを続けた。この“どうしても演じたい”という切実な衝動こそが、彼を動かした原動力であった。
撮影現場での体験は、結果として復活の契機となっただけではない。むしろ、シナトラ自身にとっては“新しいシナトラ像”を形づくるための学びの場となった。試写室で目にした「映像に密着する音楽」の構成は、3分間シングル中心だった彼の音楽観を揺さぶり、後のコンセプト・アルバムへとつながる発想を刺激した。キャピトル移籍後に確立した革新性の核心は、単なるヒット曲の寄せ集めではなく、LP全体で一つの世界観を描く『In
the Wee Small Hours』に象徴される「大人のための歌手」という新しい表現形式の創造にあった。
ちょうどその頃、音楽メディアはSP盤からLPへと移行し、1950年代後半にはステレオ録音が商業化され、音楽の聴取体験は根本的に変化しつつあった。シナトラはこうした技術革新を敏感に取り込み、映画で体験した“音と映像の一体化”の感覚を、自らの音楽制作へと昇華させていった。
映画で見られるマシンガンのような畳みかけるセリフ回しは、後年のラスベガスでの即興的なステージトークへと受け継がれた。大柄な俳優に埋没しないために磨いた背筋の伸びた立ち姿は、タキシード姿のエレガンスとしてステージ上で完成し、シナトラを“ボス”として際立たせる重要な要素となった。彼にとって、歌う姿勢や所作はまさに「演技」そのものであり、映画で培った身体表現はそのままライブ・パフォーマンスの核となった。
1960年代のサンズ・ホテルでは、映画で学んだ音響技術、セリフのテンポ、姿勢が結実し、観客を支配する圧倒的なパフォーマンスが完成した。『Sinatra at the Sands』に記録されるように、映画で目撃したマルチチャンネル音響の発想をライブ空間に応用し、会場全体を立体音響のステージとして操ったのである。マジオの早口のセリフは、サンズでのジャズ的な即興トークへと昇華し、観客の反応に合わせて言葉のリズムを変える“場の支配”の技法へと発展した。
さらに、映画産業がテレビの普及に対抗するためワイド画面化や多チャンネル化を進めた時代背景も、シナトラの表現を後押しした。高精細化する映像と音響の中で、彼の“間”の演出や身体の存在感は、より鮮明に大衆の記憶へ刻み込まれていったのである。
こうした映画出演から得た経験のすべてが、後年のエンタテイナーとしてのシナトラのスタイルを形づくる重要な基盤となった。映画、レコード、ステージ——これらは彼にとって独立した活動ではなく、相互に影響し合い、一つにつながった総合的な表現行為であった。まさに、この“統合(インテグレート)する力”こそが、シナトラを単なる歌手から「エンターテインメント界の帝王」へと押し上げた真の要因なのである。
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