投稿

10月, 2026の投稿を表示しています

第10章 『マイ・ウエイ』誕生の物語(2)パリにて

1967年、ポール・アンカは南フランス、カンヌ近郊の別荘で家族と過ごしていた。プールで遊んでいるとき、ラジオから偶然流れてきたのがクロード・フランソワの『Comme d’habitude』――後に『マイ・ウェイ』の原曲となる曲である。アンカはそのメロディに強く心を動かされ、曲の権利を獲得すべきだと直感した。 その年の12月30日、パリのプラザホテルで正式な契約が結ばれ、ここから『マイ・ウェイ』誕生への道が開かれていく。私たちはこの「発見と契約」のエピソードを繰り返し耳にしてきた。しかし、 その背後にある時代の空気や文化的背景については、十分に語られてこなかったのではないだろうか。当時のフランスがどのような芸術的環境にあったのかを少し探ってみたい。 1950年代から60年代後半のフランス、特にパリは、世界でも稀に見る濃密で刺激的な芸術の坩堝だった。サルトルやボーヴォワールが牽引した実存主義思想、ピカソや藤田嗣治、野見山暁治ら国際的な画家たちの前衛的な活動、オートクチュールが生み出す華やかなファッション文化、ゴダールやトリュフォーら若い映画監督による「ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)」、さらにベケットらによる革新的な演劇表現――多様な芸術潮流が同時に噴き上がり、街全体が創造のエネルギーに満ちていた。 こうした文化的磁場の中で『Comme d’habitude』が生まれ、アンカの耳に届いたことは、偶然でありながらもどこか必然だったのかもしれない。パリという都市が持つ創造の力が、世界へ通づる名曲誕生の舞台を静かに整えていたに違いない。 その創造の中心地となったのが、サン=ジェルマン=デ=プレのカフェである。ここには芸術家、文学者、写真家が集い、自由な議論と新しい表現を求めて日々交流を重ねていた。コーヒーの香りとざわめきの中で、思想や芸術が混じり合い、次々と新しい潮流が生まれていった。この活気あるコミュニティには、アメリカから渡ってきたジャズ・ミュージシャンたちも大きく関わっていた。 この時期のパリは、アメリカの黒人ジャズ・ミュージシャンにとって「人種差別がなく、芸術家として尊重される聖地」であり続けた。マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、キャノンボール・アダレイ、バド・パウエルなど、当時のトッププレイヤーたちが次々とパリを訪れ、伝説的なライブや録音を残している。 彼ら...