第8章 シナトラとポール・アンカ、交流の軌跡(3)ラスベガスとフロリダ

1950〜60年代、フランク・シナトラとポール・アンカは、なぜラスベガスやフロリダを拠点として活動したのだろうか。その軌跡をたどる前に、まず私自身が1990年代に目にした「二つの都市の姿」について触れておきたい。現地で感じた違和感や実感こそが、彼らの歩んだ歴史を理解するうえで重要な手がかりであると、今になって気づいたからである。

私は1990年代、仕事の関係でラスベガスとフロリダを訪れる機会を得た。両地はまさに、フランク・シナトラとポール・アンカが全盛期を過ごしたゆかりの地である。華やかな往時の姿に思いを巡らせながら現地を歩くと、そこには歴史の面影を残しつつも、それぞれ異なる時代の変化に直面している都市の姿があった。その対照的な状況を肌で感じることができた経験は、後に彼らがなぜこの地を活動の拠点としたのかを考えるうえで、大きな示唆を与えてくれた。

まず、1990年代中頃に、世界最大規模のコンピューターと通信技術の展示会であるCOMDEXを視察するためラスベガスを訪れた。展示企業は2200社、参加者は22万人に達し、会場は3か所に分かれていた。その規模は幕張メッセの十数倍に相当し、ラスベガスが産業・観光の両面で繁栄を極めていたことがよく分かった。

とりわけ印象的だったのは、シーザーズ・パレス前に広がる大理石の噴水や神殿の装飾である。決められた時間になると彫刻が動き出し、光や炎を用いたショーが始まる演出は圧巻であった。館内には古代ローマの街並みを模したストリートが広がり、天井には青空と雲が描かれ、照明によって朝・昼・夕方・夜へと色が変化した。外の砂漠の暑さとは無縁に、常に心地よい「ローマの黄昏」を歩いているような錯覚を与える空間であった。

後年、お台場の「パレットタウン・ヴィーナスフォート」を訪れた際、ヨーロッパ風の街並みや天井の空の演出がラスベガスの手法を参考にしていることに気づき、当時の記憶が鮮やかによみがえった。

一方、同じ時期に仕事で訪れたフロリダ・マイアミビーチは対照的であった。宿泊したホテルは老朽化が進み、周囲に停泊するヨットも少なく、かつての華やかだったであろうリゾート地の面影はほとんど残っていなかった。同僚たちが「熱海のようだ」と口にしたほどで、街全体には往年の観光地が衰退したときに漂う沈鬱な気配が広がっていた。

まさしく1990年代のラスベガスとフロリダは、同じアメリカの観光地でありながら、繁栄と停滞という対照的な姿を示していたのである。

フランク・シナトラとポール・アンカは、1950年代から1970年代にかけて、このラスベガスとフロリダを中心に活躍し、その活動の中で、二人の交流は深まり、やがて「マイ・ウェイ」へと結実することになる。では、シナトラとアンカは、この二つの都市でどのような活動を行い、どのように交流を重ねていったのか。その軌跡を追ってみよう

 

ラスベガス

ラスベガスは、砂漠の湧水地を中心に形成された土地であり、1829年にスペイン系探検隊が草地の広がりを見て「Las Vegas(草原)」と名付けた。以後、探検家や商人が利用する補給地として機能した。
1905526日にロサンゼルスとソルトレイクシティを結ぶサンペドロ・ロサンゼルス・アンド・ソルトレイク鉄道が開通した。鉄道が開通すると、停車場として町が生まれ、人と物資の流れができたことで人口と経済活動が徐々に拡大した。
1931年、ネバダ州が不況対策として、ギャンブルを合法化し離婚手続きを簡略化すると、ラスベガスは「自由とギャンブル」を求める人々が集まる都市へと変貌した。さらに、世界恐慌下で始まったフーバーダム建設により多数の労働者が流入し、劇場やカジノが次々と建設された。ダム完成後の安定した電力供給は、後の巨大ホテル群の建設を支える基盤となった。
1940年代には、フラミンゴなど大型カジノホテルが開業し、華やかなショービジネスが勃興してきた。このころは、マフィア系資本が影響力を持っていたことは間違いない。
フランク・シナトラは、この時代にすでに全米的な人気を誇るスターであった。トミー・ドーシー楽団での活躍を経て1942年に独立し、ラジオ・映画・レコードの三領域で成功を収め、「ボビーソクサー現象」と呼ばれる若い女性の熱狂的支持を受けた時期である。 
しかし当時のラスベガスはまだ砂漠の小都市であり、ショービジネスの中心ではなかったため、シナトラの活動拠点はニューヨークやロサンゼルス、ハリウッド、東海岸のホテルやクラブであった。

1950年代初頭、シナトラは映画の不振やレコード売上の低迷、私生活のスキャンダルが重なり、大きな低迷期を迎える。その最中の1951年、ラスベガスのデザート・インに初出演するが、観客は少なく、本人が「ステーキ6ドルに俺がついてきた」と自嘲するほどであった。 

しかし、1953年、映画『地上より永遠に』でアカデミー助演男優賞を受賞し、人気は劇的に回復する。同年10月にはサンズ・ホテルの「コパ・ルーム」に出演し、ここからシナトラのラスベガス時代が本格的に始まる。 
1950年代後半には、サンズ、サハラ、リビエラ、ゴールデン・ナゲットなど主要ホテルで公演し、ラスベガスの夜を象徴する存在となった。特にサンズの「コパ・ルーム」では、観客との距離が近い空間でマイクを巧みに使いこなし、親密性(インティマシー)の芸術といわれる歌唱法を完成させた。 
こうしてシナトラはラスベガスを「大人の社交都市」として確立する中心人物となった。

1960年代前半には、シナトラはディーン・マーティン、サミー・デイヴィスJr.らと「ラットパック」を形成する。彼らはサンズ・ホテルを拠点に、歌・コメディ・掛け合いを組み合わせた自由なステージを展開し、ラスベガスのショー文化を大きく変えた。ラットパックの公演はラスベガスの「大人の夜の文化」を象徴し、都市の魅力を世界的に高めた。シナトラはサンズの株式を約9%所有し、出演者であると同時に経営にも関わっていた。

 

1960年代後半、シナトラはラスベガスでの活動をさらに広げ、サンズ、デザート・インDesert Inn、ゴールデン・ナゲットなどで公演を続けた。巨大ホテルの建設が進み、ショービジネスが都市の中心産業として確立していく中で、シナトラはその象徴的存在となった。1966年にはカウント・ベイシー楽団を従え、クインシー・ジョーンズが編曲したライブ盤『Sinatra at the Sands』を録音し、ラスベガスにおけるライブ芸術の頂点を示した。

 

アンカは15歳だった1957年、「ダイアナ」の世界的ヒットによって一躍スターとなった。しかし、この頃の彼は主にティーンエイジャー向けのアイドル歌手であり、ラスベガスやフロリダの高級ホテルを中心とした大人向けのショー・ビジネスとはまだ距離があった。また、この時点ではフランク・シナトラとの交流も始まっていなかった。

 

1958年から1959年にかけて、アンカはテレビ出演や全米ツアーを重ね、ニューヨークやロサンゼルスの音楽業界とのつながりを深めていった。こうした活動を通じて、彼は単なるティーンアイドルから、本格的なショービジネスの世界へと足を踏み入れていく。この頃にはシナトラを強く尊敬し、「いつか彼のような大人のエンターテイナーになりたい」と語っていたが、まだ直接の面識はなかったと考えられる。

 

1960年頃になると、アンカはティーンアイドルから大人のエンターテイナーへと転身し始める。その大きな舞台となったのがラスベガスであった。彼は主要ホテルのショーに出演し、本格的に大人向けのエンターテインメントの世界へ進出した。

サンズ・ホテル(Sands)の名門ショールーム「コパ・ルーム」では、出演者の中心となるヘッドライナーを務め、若くして注目を集めた。また、サハラ・ホテル(Sahara)の「コンゴ・ルーム」では、ポップスやラテン音楽を取り入れた華やかなステージを披露した。さらに、若手スターの起用に積極的だったリビエラ・ホテル(Riviera)にも出演し、デザート・インではジャズ色の強いステージにも挑戦した。

この時期、アンカはシナトラと同じホテルに出演する機会が増え、楽屋やホテル内で顔を合わせるようになった。これが二人の実質的な最初の接点であったと考えられる。アンカは後年、「ラスベガスでシナトラのステージを観察し、その芸を学んだ」と振り返っている。

1961年から1963年頃にかけて、アンカはラスベガスでの活動をさらに広げていった。サンズのコパ・ルームやサハラのコンゴ・ルームに定期的に出演し、シナトラの仲間であるディーン・マーティン、サミー・デイヴィスJr.、ピーター・ローフォードらとも交流を深めていった。その結果、アンカは次第にラットパックの周辺人物として認められるようになり、「ラットパックの弟分」とも呼ばれる存在となった。そして、この時期を通じてシナトラとの関係も次第に親密なものとなっていった。

 

1966年に大富豪ハワード・ヒューズがホテル買収を進めたことで、ラスベガスは「裏社会の街」から「企業が投資する観光都市」へと転換した。ハワード・ヒューズがサンズ・ホテルを買収し、経営が企業化される。この時に、カジノのツケ(クレジット)を巡るトラブルから、シナトラは10年以上続いたサンズとの関係を断ち、拠点をシーザーズ・パレスへ移すことになる。  これはラスベガス黄金期の終わりを象徴する出来事であった。

 

ラスベガスは、1980年代には、中規模のカジノホテルが立ち並ぶ「大人のためのギャンブル都市」として発展していた。そこには富裕層やビジネスマンが集い、華やかなナイトライフを楽しむ独特の文化が形成されていた。

しかし1989年に、火山ショーや高級レストランなどを備えたメガリゾート「ザ・ミラージュ」が開業すると、ラスベガスは大きな転換期を迎える。単にカジノを楽しむ街ではなく、宿泊、娯楽、ショッピング、飲食を総合的に楽しめるリゾート都市へと変貌し始めた。

1990年代に入ると、ラスベガスは家族連れを意識した開発にも力を入れるようになる。エクスカリバーやMGMグランドなどの大型ホテルが開業し、テーマ性のある施設やアトラクションが充実した。一方で、ミラージュ、トレジャー・アイランド、ベラージオなど、高級感や芸術性を重視したホテルも次々と誕生し、大人向けのラグジュアリー路線もさらに磨かれていった。

こうして1990年代は家族向けの巨大リゾートと、大人向けの高級リゾートが共存する世界有数のエンターテインメント都市としての地位を確立していったのである。

私たちがラスベガスを訪れたのは、まさにそのような時代であった。特に印象に残っているのは、家族連れの旅行者の姿である。昼間には父親が展示会場で商品を見たり商談を行ったりする一方で、家族はテーマパークやホテル内のアトラクションを楽しんでいた。そして夜になると、家族全員が合流し、食事やショー、街の見学を満喫していた。

かつて大人のためのギャンブルの街であったラスベガスは、この頃には家族全員がそれぞれの楽しみ方を見つけ、共に時間を過ごせる総合リゾート都市へと変わっていたのである。

 

フロリダ

フロリダ州、なかでもマイアミは、現在では世界有数のリゾート都市として知られている。しかし、もともとは湿地や森林が広がる未開発の地域であった。

1896年、アメリカの実業家ヘンリー・フラグラーが私財を投じて建設したヘンリー・フラグラーの鉄道が、フロリダ東海岸鉄道(FEC)と海外連絡鉄道(オーバーシーズ・レイルロード)として、未開の地だったフロリダ半島東海岸を結び、近代リゾートや都市の発展、そしてキューバやカリブ海を結ぶ国際貿易の拠点づくりに大きく貢献した。この鉄道がマイアミまで延伸されると、人や物資の往来が活発になり、都市としての発展が始まった。温暖な気候と美しい海岸は北部の人々を引き付け、移住者や観光客が増加した。

20世紀初頭には避寒地として人気を集め、ホテルや別荘の建設が進み、1920年代には不動産開発が活発化し、マイアミは急速にリゾート地として成長した。

第二次世界大戦後は航空機の普及によって観光客が急増し、高級ホテルが次々と建設された。なかでも1954年に開業したフォンテンブロー・マイアミビーチは、マイアミを世界的な高級リゾートへと押し上げる象徴的な存在となった。

さらに1960年代以降は、キューバをはじめとする中南米から多くの移民が流入し、ラテン文化が深く根付いた。その結果、マイアミは海浜リゾートであると同時に、国際的な商業・金融・文化都市へと発展した。

まさしく、マイアミビーチは、多くの富裕層や観光客が訪れる華やかなリゾート地として、高級ホテルやナイトクラブが立ち並び、一流エンターテイナーによるショーが人気を集めていた。

フランク・シナトラもこの時代、マイアミビーチでたびたび公演を行っていた。マイアミはすでに国際的な高級リゾートとして発展しており、スター歌手の華やかなステージが街の大きな魅力となっていた。

ラスベガスがカジノとナイトショーを中心とする「大人の夜の街」であったのに対し、マイアミはビーチやリゾートライフに加え、夜のエンターテインメントも楽しめる「昼夜を通じて満喫できるリゾート都市」であった。シナトラはこうした二つの都市を拠点に活動し、それぞれの魅力を生かして多くの観客を魅了した。

1960年代後半には、シナトラはマイアミビーチでの活動をさらに広げた。フォンテンブロー・ホテルやエデンロック・ホテルなどの高級ホテルで公演を行い、リゾート都市マイアミを代表するスターとして大きな存在感を示した。マイアミはラテン文化の影響を受けた華やかなショーやナイトライフでも知られ、シナトラはその中心的なエンターテイナーの一人であった。

 

さらに俳優としても多忙であり、フロリダを舞台にした映画 

- 『トニー・ローム/死の追跡』(1967 

- 『セメントの女』(1968 

の撮影を行っていた。 

映画撮影のため長期滞在することが増え、マイアミはシナトラにとって「仕事と休息を兼ねた拠点」となった。

 

1960年代後半の音楽業界は、ロック音楽の台頭や巨大PAシステムの普及により、シナトラが愛した「洗練された大人の夜の世界」は大きく変化していた。このころシナトラはこの変化に強い苛立ちを覚え、深い疲労感を抱いていた。すなわち、西海岸のラスベガスはシナトラの「帝国」であり、ショービジネスの頂点を象徴する都市であったのに対し、東海岸のフロリダは、 

- 高級リゾートでの華やかなショー活動 

- 映画撮影の拠点 

に加えて、

- 時代の変化に直面した心境の揺らぎ 

- 私的な会話の場 

という、より「人間的な側面」が示される都市であった。

 

この二つの都市を往復しながら、シナトラは1950年代から1960年代後半にかけて、 

ショービジネスの頂点と、時代の変化への葛藤を同時に経験していったのである。

 

一方で、アンカはラスベガスだけでなく、フロリダ・マイアミビーチでも活動を広げる。

マイアミでの主な出演ホテルは、富裕層向けの豪華ショーが行われる高級ホテル、フォンテンブロー・ホテル(Fontainebleau)が中心となり、アンカはここでリゾート型ショー文化を体現した。また、マイアミを代表する高級ホテルエデンロック・ホテル(Eden Roc)では、家族連れや観光客向けのショーを中心とした。

ラスベガスが「夜の大人の都市」であったのに対し、  マイアミは「昼も夜も楽しむリゾート都市」であり、アンカは二つの都市を使い分けながら活動の幅を広げていった。

 

この頃、シナトラはアンカの作曲能力を高く評価しており、アンカはシナトラのステージ構成や曲選びについて助言することもあった。また、アンカはフロリダでのシナトラの私生活の場にも出入りするようになり、家族や友人とも交流するようになる。シナトラの息子ジュニアとは、兄と呼べるような関係であったと思われる。両者はこの時期には「親しい友人」と呼べる関係になっていた。

 

その延長線上に、1967年、フロリダで映画撮影中のシナトラに夕食にさそわれたのである。

この席でシナトラは、 

 「もうこの業界には嫌気がさした。引退するつもりだ」 

と漏らす。

 

アンカはこの言葉を受け、以前フランスで耳にし、権利を得ていた「Comme d'habitude」を思い出し、ニューヨークに戻って一晩で英語詞を書き上げる。 

これが『My Way』である。

 

さて、フロリダは、1980年代に入ると、マイアミが麻薬取引の拠点として知られるようになり、治安が悪化した。映画やドラマでも「危険な街」として描かれることが増え、観光客はより安全なオーランドやカリブ海クルーズへと流れていった。

さらに、高齢化や施設の老朽化も進み、1990年代のマイアミビーチは、かつて世界有数のリゾート地として誇った魅力を大きく失っていた。その姿は、私たちが「まるで熱海のようだ」と感じるほどだった。特にマイアミビーチでは、華やかなリゾート地の面影が薄れ、訪れる人々の中心は高齢者となり、街は「年金生活者が静かに暮らす場所」へと変化していった。ホテルや建物の多くは築3040年を迎えて老朽化していたが、十分な改修は行われず、往年の華やかさは次第に失われていった。

こうして街全体には、かつての栄光の名残をとどめながらも、衰退期特有の寂しさが漂うようになっていた。私たちがマイアミを訪れたのは、まさにそのような活気を失った時期であり、しかし、「再生前夜」ともいえる時期だったのである。

 

1990年代後半になると、やっとマイアミビーチは大きく変わり始めた。長く放置されていた古い建物が改装され、街の中心部では再開発が進んだ。特にサウスビーチでは、アールデコ様式の建物を生かした新しい店舗やホテルが次々と生まれ、若いデザイナーやモデル、投資家などが集まるようになった。これまで高齢者中心だった街に再び若い人たちの活気が戻り、流行の発信地として注目されるようになった。観光客も増え、セレブが別荘を構えるような高級リゾートとして再評価され、街全体が明るく洗練された雰囲気へと変わっていった。こうしてマイアミビーチは、再び魅力ある観光地として復活していったのである。

 

2都物語

しかし、ここで大きな疑問が生じる。

二人がこの二つの都市で活躍したのは、単なる偶然にすぎないのか。

それとも、同様の性格をもつ都市が他にも存在したにもかかわらず、二人はなぜこの二つの都市と特に深い関係を結ぶことになったのか。

さらに言えば、この二つの都市そのものが、米国の中でもきわめて特異な存在であったということなのだろうか。これらの点については、いまだ私には謎のままである。

 

1950年代から1960年代にかけて、アメリカのエンターテインメント産業は急速な変容を遂げた。その中心に位置したのが、ネバダ州ラスベガスとフロリダ州マイアミ、特にマイアミビーチである。これら二つの都市は、単なるリゾート地や観光都市ではなく、当時のアメリカ社会の政治・経済・文化・裏社会の力学が複雑に絡み合うことで形成された、極めて特異な「エンターテインメント・クラスター」であった。そこでは、資本、才能、情報、権力が高密度に集積し、他の都市では見られない独自の構造が生まれていた。そして、このクラスターの中心に、フランク・シナトラとポール・アンカという二人のアーティストが重要な要素として組み込まれていたのである。

 

ラスベガスとマイアミがいかにして特異なクラスターとして成立し、なぜシナトラとアンカがその中で大きな役割を果たしたのかを、その歴史的背景、都市構造、産業集積、他都市との比較、そしてクラスター論の視点から考察してみよう。

まず、なぜ数あるアメリカの都市の中で、ラスベガスとマイアミがエンターテインメントの中心として突出したのか。その理由は、単なる偶然ではなく、歴史的・制度的・社会的な必然性に基づいている。

ラスベガスは1931年にギャンブルが合法化されて以降、砂漠の中に突如として現れた巨大な資本の集積地となった。特に1950年代以降は、モービル資金をはじめとする非合法組織の資金が大量に流入し、サンズ、デザート・イン、フラミンゴ、リビエラなどの巨大カジノホテルが次々と建設された。これらのホテルは単なる宿泊施設ではなく、ショールーム、レストラン、カジノ、バー、そしてVIP専用の密室空間を備えた総合的な娯楽装置であった。

この構造は、アーティスト、興行主、裏社会の権力者、ホテル経営者、音楽家、作曲家、編曲家などが一つの空間に集まり、濃密な人間関係と情報交換を行うことを可能にした。まさに「閉じた社交空間」であり、ここでの滞在は単なる公演ではなく、政治的・経済的な交渉の場でもあった。

 

フランク・シナトラは、このラスベガスの構造を最大限に活用した人物である。彼はサンズホテルの「コパ・ルーム」を拠点とし、ラット・パックの中心として振る舞い、出演者であると同時に経営権にも関与した。彼の存在は、ラスベガスのショービジネスにおける象徴であり、帝王としての地位を確固たるものにした。

 

一方、マイアミは東海岸における巨大リゾート地として発展した。特にマイアミビーチは、ニューヨークの富裕層や芸能関係者が冬季に集まる「季節型のエンターテインメント都市」であった。フォンテンブルー・ホテルやエデンロック・ホテルなどの高級ホテルには、巨大なナイトクラブやショールームが併設され、ラスベガスに匹敵する規模のショービジネスが展開された。

ニューヨークの名門クラブ「コパカバーナ」の姉妹店である「コパ・シティ」は、東海岸の芸能界と裏社会の有力者が集う拠点であり、シナトラやアンカをはじめとするスターたちが頻繁に出演した。マイアミは、ラスベガスとは異なる文化的背景を持ちながらも、同様に巨大資本と人材が集積する特異な都市であった。

 

これら二つの都市が特異であった理由は、単にショービジネスが盛んだったからではない。都市そのものが、エンターテインメント産業に特化した構造を持っていた点にある。

ラスベガスにはマフィア資金が流入し、マイアミにはニューヨークの富裕層や興行主の資金が流れ込んだ。これらの資本は、巨大ホテル、ショールーム、オーケストラ、照明設備、音響設備などのインフラを支え、アーティストに高額のギャラを支払うことを可能にした。

 

ラスベガスもマイアミも、ホテルが単なる宿泊施設ではなく、ショー、カジノ、レストラン、バー、プール、会議室などを備えた「複合娯楽空間」であった。アーティストはホテルに滞在し、観客もホテルに滞在し、興行主や裏社会の関係者も同じホテルに滞在した。これにより、都市全体が一つの巨大な社交空間として機能した。

同じホテル内で、作曲家、編曲家、プロデューサー、演奏家、興行主、アーティストが顔を合わせるため、情報の伝播が極めて速かった。誰がどの曲をどう料理しているか、どのショーが成功しているか、どのアーティストが次に伸びるかといった情報が、リアルタイムで共有された。

 

ラスベガスではマフィアがホテル経営に深く関与し、マイアミではニューヨークの裏社会が興行に影響を与えた。これらの力学は、アーティストの出演契約やショーの構成に影響を与え、都市のエンターテインメント構造をさらに特異なものにした。

 

マイケル・ポーターが論じた「産業クラスター(Industrial Cluster)」の概念によれば、クラスターとは「特定の分野において、競争力を持つ企業、関連産業、専門機関、そして多様な利害関係者が、特定の地理的エリアに集中して集積する現象」である。この定義に照らすならば、ラスベガスとマイアミという二つの都市は、まさにその典型例とみなすことができる。両都市には、エンターテインメント産業を支える資本、人材、インフラ、そして多様な利害関係者が高密度に集積しており、その特殊性はクラスター概念ときわめて整合的である。

とりわけクラスターとしての特徴は明確である。インフラとしての巨大ホテル、人的資源としての常設オーケストラ、専門人材としての作曲家・編曲家・プロデューサー、スターとしてのアーティスト、ビジネス主体である興行主、資本財として機能する裏社会の非合法資金、そして市場を構成する富裕層の観客。これらすべての要素が、ラスベガスとマイアミという狭い地理的空間に高密度で集積していた。

 

ニューヨークやロサンゼルスのような巨大都市にもエンターテインメント産業は存在した。しかし、ブロードウェイのように特定の機能に限定されていたり、都市全体に広く分散していたりしたため、ラスベガスやマイアミのような高密度かつ総合的なエンターテインメント空間は形成されなかった。これらの都市はあくまで「作品を生み出す場」「メディア産業の拠点」としての性格が強く、滞在・遊興・興行が一体化した空間にはなり得なかったのである。

とりわけ、ニューヨークはショービジネスの本丸であったが、都市規模が大きく、機能が広範に分散していた。ホテルに滞在しながらショーを行い、裏社会の権力者と密室で交渉するというラスベガス型の構造は存在しなかった。ロサンゼルスは映画産業とレコーディングの中心地であったが、夜ごとの大規模ショーやリゾート型の社交空間は限定的であった。シカゴはジャズの拠点であったものの、都市の衰退や抗争の影響により、クラスターとしての機能は低下していた。

このように、ニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴといった大都市は「仕事の場」であり、エンターテインメント産業の要素が分散していた。したがって、ラスベガスとマイアミの代替にはなり得なかった。両都市は、エンターテインメントに特化した極めて高い集積度を持つ地域であり、クラスターとしての成熟度は他都市とは比較にならないほど突出していたのである。

この特異なクラスター構造の中で、シナトラとアンカは単なる出演者ではなく、クラスターを構成する重要な資源であった。シナトラはラスベガスのショービジネスを象徴する存在であり、ラット・パックの中心として振る舞い、ホテル経営にも関与した。彼は単なる歌手ではなく、資本、権力、人材を結びつける「ハブ」として機能し、クラスター全体の結節点となっていた。アンカもまた、ティーンアイドルから大人のエンターテイナーへと脱皮する過程で、若き才能としてラスベガスとマイアミのクラスターに深く組み込まれていった。 

アンカがフランスで見つけた原曲「コム・ダビチュード」をシナトラに託することができたのは、両者がラスベガスとマイアミという同一のエンターテインメント・クラスターに身を置き、物理的にも心理的にも近接した環境にあったからである。実際、二人の接点は、巨大ホテル内での夕食というフェイス・トゥ・フェイスの会合から生まれたものであり、こうした偶発的な創造の瞬間は、機能が分散した都市間では成立し得なかったと言えよう。

この高密度な空間では、契約や交渉に伴う取引費用が劇的に低減されていた。そのため、アンカが買い取った楽曲のアイデアが、短時間でシナトラの『My Way』へと昇華するという、極めて迅速な意思決定が可能となったのである。アンカはこのクラスターの中でシナトラのネットワークに接続し、作曲家としての才能を発揮し、ついには歴史的名曲『My Way』を生み出すことになる。これは偶然ではなく、ラスベガスとマイアミという特異なエンターテインメント・クラスターがもたらした必然であったに違いない。

 

クランの役割

このクラスターの中で、マフィアなど裏社会の組織が果たした役割は特筆に値する。現代の法治社会において、これらの組織は反社会的勢力として明確に排除されるべき存在であり、暴力団として社会のお荷物とみなされることが一般的である。しかし、この評価はあくまで成熟した法治国家を前提としたものである。

ここで考えるべきは、舞台がアメリカであるという歴史的事実である。独立宣言は1776年、今から約250年前であり、日本では江戸時代中期にあたる。日本が江戸幕府という中央集権的な法治体制を一定の完成度で整えていた時期に、アメリカはまだ国家としての制度や治安維持の仕組みが未成熟であった。

連邦政府の統治能力は十分ではなく、犯罪が発生しても警察権力が広域的に治安を維持することは困難であった。地域の保安官が必死の覚悟で治安を守ろうとしていたが、制度的なガバナンスはしばしば不全に陥った。こうした状況下では、国家の暴力装置が十分に機能しない領域において、代替的なガバナンスが求められるのはむしろ自然である。

大河ドラマ『平清盛』で描かれた場面が象徴的である。清盛が政権を掌握すると、直ちに裁可を求める人々の行列が押し寄せた。そこには、水利権や境界をめぐる地域紛争、犯罪の訴えなど、日常的な統治課題が山積していた。これらを裁定できたのは、背後に強大な権力と武力機構が存在していたからである。つまり、ガバナンスとは抽象的な理念ではなく、具体的な紛争解決と秩序維持の実践にほかならない。

この視点をアメリカに重ねれば、保安官や政府がその役割を十分に果たせなくなったとき、代替的なガバナンスが登場することは不思議ではない。商売の売上を安全に確保できること、殺人が起これば犯人が逮捕され処罰されること、これらはすべてガバナンスの基本的機能である。国家がそれを提供できない場合、別の主体がその役割を担うことになる。

ラスベガスやマイアミのようなクラスターでは、まさにこの代替ガバナンスとして裏社会の組織が機能した。彼らは暴力を背景に紛争を裁定し、契約を強制し、興行の安全を保障した。もちろん、現代の価値観から見れば非合法であり、重大な問題を孕む存在である。しかし、当時の制度的空白を埋める「ガバナンスの代替装置」として機能したことは否定できない。

国家の暴力装置が届かない領域において、クランは独自のルールと制裁を持ち、経済活動の安全性を担保した。これこそが、ラスベガスやマイアミのエンターテインメント・クラスターが成立し得た背景であり、裏社会の存在はその構造の一部として不可欠であった。

ここでいうクランとは、血縁や地縁に基づく結束を持ち、内部の規範と相互扶助によって秩序を維持する「氏族的共同体」を指す。国家の統治が十分に及ばない領域において、紛争の裁定や安全の確保を担う、いわば代替的なガバナンス主体である。

とりわけ移民によって形成された米国においては、出身地域を基盤とする共同体が中心的な役割を果たすことは必然である。イタリア系、ユダヤ系、さらには華僑のように、世界的なネットワークを持つ共同体の一部が米国に根を下ろし、互助と経済活動の基盤を築いてきたことは広く知られている。

同様の現象は日本にも見られる。東京には各都道府県の県人会が存在し、出身地を軸とした結束が生活やビジネスに影響を及ぼしている。近年では、外国人コミュニティも地域別のネットワークを形成し、ビジネスや社会活動に大きく関与している。こうした共同体は、国家の制度や市場だけでは補いきれない領域で、相互扶助や情報共有の役割を担い、社会の実態的な運営に寄与しているのである。

 

移民国家として形成された米国では、出身地域や民族を基盤とする共同体が、生活・経済・安全保障の面で重要な役割を果たしてきた。イタリア系、ユダヤ系、華僑など、世界的なネットワークを持つ共同体が米国に根を下ろし、相互扶助と経済活動の基盤を築いたことはよく知られている。こうした共同体は、国家の制度や市場だけでは補いきれない領域で、独自の規範と秩序を維持する「私的ガバナンス装置」として機能してきた。まさにこの構造が、ラスベガスやマイアミビーチというエンターテインメント・クラスターの成立と発展に深く関与することになる。

とりわけ、ラスベガスやマイアミビーチの黎明期において、マフィアやシンジケートと呼ばれる裏社会の組織は、単なる犯罪集団ではなく、クラスターの初期形成を支えた「必要悪」あるいは「触媒」として機能した。彼らは、通常の金融機関が絶対に融資し得なかった巨大リゾート開発に莫大な資金を投下し、砂漠や未開発の海岸線に高級ホテルとカジノという初期インフラを一気に立ち上げた。プロヒビション時代に蓄積した余剰資金を、合法的な観光産業へと転換する大胆なリスクテイキングこそが、クラスターの胎動期を支えた原動力であった。

さらに、彼らは国家の治安維持が十分に機能しないフロンティアにおいて、独自の秩序を敷いた。富裕層やスター、政治家を呼び寄せるためには、犯罪や混乱が起きてはならない。裏社会は「自らの収益源を守る」という論理のもと、イカサマや暴力を徹底的に排除し、表向きには極めて高い治安を維持した。これは、警察や行政が腐敗や能力不足で十分に機能しなかった時代における、代替的なガバナンスとしての役割であった。アーティストやセレブリティが安心して滞在できる空間が成立した背景には、この「私的秩序」の存在があった。

また、裏社会は資本・不動産・タレント・顧客を結びつける総合プロデュース力を発揮した。ニューヨークやシカゴの芸能エージェント、ミュージシャン、興行主と太いパイプを持ち、ハウス・オーケストラを従えた巨大ショーを毎晩回すための垂直統合型システムを構築した。シナトラのような大スターが、レーベルや興行の利権と密接に結びつきながら巨大なショーを打てた背景には、この裏社会が作り上げた「タレントを囲い込み、最高潮にもてなすための装置」が深く関与していた。

このように、ラスベガスやマイアミビーチのエンターテインメント・クラスターにおいて、裏社会は 

1. 通常では調達不可能な初期投資を引き受ける金融機能 

2. 国家の不在を補う治安維持というガバナンス機能 

3. 資本・人材・顧客を結びつけるプラットフォーム機能 

を担い、産業の立ち上がりを加速させる「ブースター」として機能したのである。

 

やがて1960年代後半から1970年代にかけて、RICO法などによる徹底的な弾圧によって裏社会の支配力は排除され、ウォール街や上場企業によるクリーンな資本がクラスターを引き継いでいく。これは、近代的な金融市場とコーポレート・ガバナンスのルールに適合しない旧来の私的ガバナンス装置を、国家が制度的に解体していくプロセスであった。

 

この構造変化の過渡期において、フランク・シナトラは特異な位置を占めた。彼は裏社会とショービジネスが密接に絡み合う時代の象徴であり、資本・権力・タレントを結びつけるハブとして機能した。しかし、クラスターが近代的な企業資本へと移行するにつれ、彼の「実務的な力」は徐々に不要となり、やがて彼は「敬意を払われる象徴(アイコン)」へと役割を変えていく。まさにその境地こそが、『My Way』の歌詞に重なる。利権や実務の喧騒から身を引き、ただ自らの足跡を誇り高く振り返る老いた帝王の姿は、変容するエンターテインメント経済の中で「最後の象徴」として生きたシナトラ自身の姿と重なっていたのである。

 

では、クランのような存在は、今の社会から本当に消えたのだろうか。表向きには、法律や制度が整備され、暴力団や裏社会の組織は排除されたように見える。しかし、人々の心の中には、そうした存在への「恐れ」や「頼りたい気持ち」が、完全に消えたわけではない。

たとえば、世界のニュースで中東のテロ組織が取り上げられるとき、私たちはそこに「闇のネットワーク」や「影の政府」のようなものを感じ取ってしまう。実際、それらの組織は重大な暴力と人権侵害を行っており、社会に深刻な害を与えている。しかし同時に、人々の心の中には、「国家が守ってくれないとき、こうした影の力が動くのではないか」という不安が残る。いわば「影の仕置人」への期待もある。これは、昔のクランが担っていた役割―― 

- 国家が届かない領域で秩序をつくる 

- 争いを裁く 

- 生活を守る 

といった「代わりのガバナンス」が、完全には忘れられていないからである。

 

現代の社会は、表向きはクリーンで透明な制度で動いている。しかし、 

- 国際紛争 

- テロ 

- 経済危機 

- 国家の統治が揺らぐ場面 

では、人々の心の奥底に「影の力が動いているのではないか」という想像がよみがえる。

 

つまり、クランという存在は、 

制度としては消えても、心理としては消えない。人間は、完全に透明で合理的な世界だけでは安心できず、 「見えない力がどこかで動いている」という感覚を手放せない。

ラスベガスやマイアミのエンターテインメント・クラスターでは、表向きの裏社会は排除された。しかし、人々の心の中には、 

「昔は影の力が動いていた」 

「今もどこかに残っているのではないか」 

という記憶や想像が残っている。

そしてその感覚は、世界のどこかで起きる紛争やテロのニュースによって、時折よみがえる。 

クランの残滓とは、制度の中ではなく、**人間の心の中に残っている影の記憶**なのかもしれない。

 

米国社会には、合理的な市場経済と、クランのような非合理的共同体が併存するという二重構造が歴史的に根づいてきた。制度や市場は高度に発達しながらも、人々の心の奥には、見えない共同体や影の力への不安と期待が消えずに残っている。この二重性は、合理性の枠を超えたリーダーが登場し得る土壌を形成し、非合理的な魅力を帯びた人物が支持を集める背景となってきた。

こうした社会構造の中で、ラスベガスやマイアミに形成された特異なエンターテインメント・クラスターは、合理的な市場とクラン的ガバナンスが混在する「異形の大人の社交都市」として機能した。そこでシナトラという帝王は誕生し、アンカという若い才能はその複雑なシステムを巧みに泳ぎ切ったのである。やがてRICO法によって裏社会の統治が解体され、両都市が企業的資本へと再編されていく中で、シナトラは実務のハブから「時代の象徴(アイコン)」へと、姿を変えていった。

すべてを終え、変わりゆく時代の中で自らの歩んだ道を誇り高く歌い上げる『My Way』。その切なくも堂々としたメロディには、かつて砂漠と海岸線に咲き誇ったエンターテインメント・クラスターの栄光と、そこに潜んでいた影の歴史が静かに刻まれているのである。

 

 

参考文献

Clusters and the New Economics of Competition”, Michael E. Porter, Harvard Business Review, 1998(『競争戦略論』競争戦略論マイケル・E・ポーター Michael E. Porterダイヤモンド社, 2018).

コメント

このブログの人気の投稿

第2章 「マイ・ウエイ」へのシナトラの軌跡(1)アイドルスターの誕生

第1章「マイ・ウエイ」はフロリダでの夕食から生まれた

序章