第9章 シナトラとポール・アンカ、交流の軌跡(4)「フロリダの夕食」の謎

 私が青春を過ごした1960年代は、ベトナム戦争や公害問題など、世界も社会もどこか混乱気味で、文化までもが大きく揺れていた時代だった。日本でも海外でも若者の反抗が渦巻き、音楽やアートが次々と新しい姿を見せていた。私もその雰囲気に自然と影響され、ジャズ喫茶でコルトレーンを聴いたり、ロックや前衛映画、アングラ演劇に触れたりして、「これが時代の最先端だ」と思い込んでいた。

ただ、今思えば、そうした前衛文化にはどこか背伸びしてつき合っていただけなのかもしれない。そんな気持ちをふっと軽くしてくれたのが、あるピアニストのライブだった。演奏の楽しさがまっすぐ伝わってきて、「自分が本当に楽しめる音楽はこういうものだ」とはっきり気づいたのだ。

振り返ると、あの頃の私は時代の熱気に押されて、少し無理をして世界を受け止めていたのだと思う。それほどまでに、多くの領域で大きな変化が次々と起こっていた時代だったのは確かだ。

 

シナトラはこのフロリダ滞在期において、精神的に不安定であり、態度も荒れていたとキティ・ケリー著(注)に多くの証言が残されている。彼の身辺には、まさに内憂外患と呼ぶべき複数の問題が重なり、精神状態が健全とは言い難い状況に追い込まれていたことは事実である。 

(注)

Kitty Kelley(キティ・ケリー), His Way: The Unauthorized Biography of Frank SinatraBantam, 1983(柴田訳『ヒズ・ウェイ』文藝春秋, 1989, 434頁など).

 

その中で何が最優先の懸念であったかを断定することは困難であるが、少なくとも、彼が長年にわたり築き上げてきたアメリカ的エンターテインメントの基盤が揺らぎ始めていたことは疑いない。とりわけ、1960年代半ばの「ブリティッシュ・インヴェイジョン」──イギリスのロックやポップ・ミュージックがアメリカを席巻した現象──は、既存の音楽家にとって強烈な衝撃であった。この現象は日本ではあまり強調されないが、当時のアメリカでは「英国の侵攻」とまで呼ばれ、その影響力は特別な意味をもって語られていた。

 

この潮流は、シナトラのような伝統的歌手にとって不快感をもたらしただけでなく、彼の周囲のスタッフの姿勢にも変化を生じさせた。「夜のストレンジャー」に象徴されるように、長年ともに音楽を作ってきた仲間たちが、従来のスタイルを離れ、新しい商業的潮流に迎合していく姿を目の当たりにし、シナトラは単なる不愉快を超えた深い失望を覚えていたと推察される。私自身、エラ・フィッツジェラルドがビートルズの「Can't Buy Me Love」を歌っているのを初めて聴いたときには、目が飛び出るほど驚いた記憶がある。時代の変化がいかに急激であり、既存の価値観を揺さぶるものであったかを象徴する出来事である。

 

こうした衝撃は、単なる流行の変化にとどまらず、アメリカ音楽産業全体の構造的転換を示すものであった。若者文化の中心がロックへ移行し、職人型シンガーの美学は市場の主流から外れつつあった。さらに、音楽産業は国際化の波に乗り、ヨーロッパやラテンの旋律を大量に輸入し、売れるメロディを国籍を問わず吸収する商業主義を強めた。こうした変化は、シナトラが信じてきた「歌手が楽曲を解釈し、オーケストラとともに作品を完成させる」という伝統的制作観を根底から脅かすものであった。

 

それに加えて、ミア・ファローとの関係をめぐる女性問題、複数の訴訟案件、大富豪ヒューズによるラスベガスの変容、さらには大統領選挙への関与をめぐる政治的緊張など、考えるだけでも処理困難な課題が同時に彼を襲っていたのである。これらはすべて、シナトラの名声と立場に直結する重大事であり、いずれも軽視できない重圧であった。

 

音楽的基盤の揺らぎに加え、私生活・法的問題・政治的関与が複合的に重なった状況において、精神的な安定を保つことは至難であったと考えられる。フロリダ滞在期の荒れた言動は、まさにこうした多重の負荷が表面化した結果であり、後に「マイ・ウェイ」へと至る彼の心境の転換点を理解するうえで重要な要素である。

 

「フロリダの夕食」とは、まさにこのような精神状況と時代的圧力を背景として生じた一つの象徴的出来事であり、後の『マイ・ウェイ』へと接続する分岐点を示すものであったことは間違いない。

 

私が抱いていた素朴な疑問──シナトラはなぜアンカに歌詞の制作を依頼したのか、二人はそこまで親密な関係だったのか──について要約すれば、これまで述べてきたように、ラスベガスでの交流を通じて家族ぐるみの親しい付き合いがあり、アンカは映画『史上最大の作戦』の主題歌を手がけるなど、シナトラから高い評価を得ていた。そうした信頼関係の中で、シナトラはアンカに悩みを打ち明け、曲作りを依頼したのである。その悩みに応える形で、アンカが歌詞を書き上げ、シナトラに献じたというのである。

 

しかし、ここまで見てきたシナトラの精神状況を踏まえるならば、この依頼のあり方には改めて疑問を呈さざるを得ない。すなわち、音楽産業の構造変化、名声の揺らぎ、私生活の混乱、政治的緊張が重なり、精神的均衡を失っていた時期に、冷静な判断に基づく「実務的に正確な作詞依頼」が行われたと考える方がむしろ不自然である。形式的な契約や職能評価に基づいて作詞家を選んだというより、シナトラは自らが信頼できる若い友人に感情的に寄りかかり、心情的な救済を求める形で依頼したと見る方が整合的である。

 

だが、果たしてそれだけで説明しきれるのだろうか。アンカへの依頼は、単なる「親しい若者への感情的依存」だったのか、それともシナトラ自身が無意識のうちに、人生を総括する語りを必要としていたのか。この依頼の背景には、なお検討すべき余白が残されていると言わざるを得ない

 

夕食の情景の再現

「フロリダでの夕食」の場面を、これまで紹介してきた内容をもとに再現してみよう。私自身が収集した情報や公開資料をもとに描いた夕食のイメージをAIに示し、さらにポール・アンカの自叙伝(p.208)に記されたシナトラとの会話をそのまま引用して、当時の情景を再構成した。

 

1967年、フロリダ州マイアミビーチ。フォンテンブロー・ホテルで、後に『マイ・ウェイ』誕生の契機として語り継がれる夕食の席が設けられた。

 

当時、フランク・シナトラは映画『セメントの女』の撮影のためマイアミに滞在していた。1960年代後半は、ビートルズをはじめとするロック音楽が世界的な人気を獲得し、アメリカのポピュラー音楽を取り巻く環境が大きく変化していた時期である。ショービジネスの第一線で活躍してきたシナトラも、こうした時代の変化を強く意識していたとされる。

 

一方、同じくマイアミビーチで公演中だったポール・アンカのもとに、一本の電話が入った。電話をかけてきたのは、シナトラの最側近として知られるジリー・リッゾである。

 

"Kid, come on over, the old man wants to have dinner with you."

「坊主よ、おやじがお前と夕食をしたいと言っている。来いよ」

 

ジリー・リッゾは、シナトラが最も信頼した人物の一人として知られている。ニューヨークでは人気レストラン兼バーを経営し、その店には芸能人や音楽関係者だけでなく、政財界や裏社会の有力者も出入りしていた。シナトラにとって彼は単なる友人ではなく、身辺の管理や対人関係の調整を担う相談役でもあった。

そのジリーから「フランクが君と話したがっている」と伝えられたのである。アンカにとって、この誘いを断るという選択肢はなかっただろう。

 

当時、アンカも仕事のためにマイアミへ滞在していた。フォンテンブロー・ホテルはショービジネス関係者が集まる拠点であり、二人が同じ場所にいたこと自体は不自然ではない。しかし、シナトラがプライベートな夕食に招く相手は限られていた。アンカがその席に呼ばれたことは、すでにシナトラから一定の信頼を得ていたことを示している。

 

一般に、大人同士が差し向かいで夕食をとるのは、親密な関係か、あるいは何らかの重要な相談を目的とした場であると考えられる。実際には、この夕食も二人きりではなく、数名の同席者がいた可能性が高い。

 

夕食の同席者については、具体的な顔ぶれについて明確な記録は書かれていない。まずはジリー・リッゾが挙げられる。彼はシナトラの身近で場を取り仕切り、空気を整える役割を担っていた。また、シナトラがフォンテンブローに滞在する際には、用心棒が二人ついていたとされる(注)が、彼らは同席ではなく、警護役として控えていた可能性が高い。さらに当時の状況から、ミア・ファローが近くの席に姿を見せていた可能性も否定できない。彼女は離婚前後の時期であり、シナトラの周囲に出入りしていたことが知られている。ホテルの幹部や支配人が挨拶に訪れていたのかもしれない。

(注)

キティ・ケリー(434頁)

 

この日の会話の内容については、後にアンカ自身が自叙伝で振り返っている(注)。

そこでシナトラは次のように語った。

「もううんざりだ。あと一枚アルバムを作ろうと思ってる。そしたら、俺はこの世界から身を引くよ。おい、坊主、まだ俺に曲を書いてくれていないよな。」

 

アンカは、

「フランク、確かにその通りだ。考えてみるよ」

 

フランクは

「長く待たせるなよ」

といった。

 

(注)

Paul Anka, David Dalton, My Way〔以下「自叙伝」〕, p. 208.

Frank: "I'm fed up, I'm going to do one more album, and I'm out of here."

           "Hey, ki1d, you never wrote me that song."

Anka: "Frank, you got me there. I gotta think about that."

Frank:Do not so long”

 

もちろん、二人の会話がこれだけで終わったわけではないだろう。しかし、アンカの「自叙伝」に記述されているのは、このやり取りだけである。

 

実はアンカは、その約1年前にフランスで耳にした『Comme d'habitude(いつものように)』の英語版権利を取得していた。そのメロディに強く惹かれてはいたものの、どのような歌詞を乗せるべきかはまだ決まっていなかった。

だが、この日のシナトラとの会話が、その答えを与えた。

 

引退を口にするシナトラ。その姿を目の当たりにしたアンカは、『Comme d'habitude』の旋律を、一人の男が自らの人生を振り返る物語へと生まれ変わらせる着想を得たのである。

 

夕食後、アンカはニューヨークへ戻り、歌詞の執筆に取りかかった。後年の証言によれば、彼はシナトラになりきるつもりで言葉を選び、一晩で歌詞を書き上げたという。

 

"And now, the end is near..."

 

で始まるその歌は、成功も失敗もすべて受け入れながら、自らの人生を振り返る一人の男の独白として構成されていたといわれている。

 

こうして完成した『マイ・ウェイ』は、後にシナトラの代表曲となる。そして、その原点には、1968年のフロリダで交わされた一度の夕食と、帝王による率直な吐露があったのである。

 

「フロリダの夕食」はなかった?

一般には、このフロリダでの夕食は前述のように語られている。そして、この席でシナトラとポール・アンカの間に率直で親密な会話が交わされ、アンカがシナトラのための新曲づくりを意識する契機になったと理解されている。

こうしたやり取りが成立した背景には、両者が長年にわたり築いてきた信頼関係があった。ポール・アンカはデビュー以来シナトラに強い憧れを抱き、ニューヨークからラスベガスへと活動の場を広げるなかで、その交流を深めていった。やがてラスベガスのショーステージを任されるようになり、プライベートでも家族ぐるみの付き合いをする関係へと発展していた。

また、アンカは映画『史上最大の作戦』の主題歌を提供するなど、ソングライターとしても高く評価されており、その才能はシナトラにも認められていた。さらに、アンカを支えたアレンジャーのドン・コスタが、後にシナトラのお気に入りのアレンジャーの一人となったことも見逃せない。

このように、シナトラ、アンカ、そしてコスタの間には、音楽的にも人的にも強い結び付きが築かれていた。そのことが、シナトラが自身の将来についての本音をアンカに打ち明ける土壌となっていたと考えられるのである。

 

ポール・アンカは、「自叙伝」や取材、インタビューで、繰り返し、『マイ・ウェイ』誕生の原点はフロリダでの夕食にあったと述べている。映画撮影のためマイアミに滞在していたフランク・シナトラがアンカを夕食に招き、その席で引退への思いを打ち明け、引退の言葉に驚き、アンカがニューヨークへ飛び、『マイ・ウェイ』の歌詞を書き上げた。このエピソードが『マイ・ウェイ』誕生神話として広く知られている。

しかしながら、その内容を詳しく検討していくと、「フロリダの夕食」説にはいくつかの疑問点が見えてくる。

 

まず、アンカ自身の証言に見られる年代の曖昧さである。「自叙伝」では、この出来事の時期について "sometime in 1967"(注)と述べられている。しかし、アンカがフランスのシャンソン『Comme d'habitude』の権利を取得した時期や、その後の『マイ・ウェイ』制作の流れを時系列的に整理すると、この夕食が、1967年というのも不自然に聞こえる。

(注)

ポール・アンカ&ダビット・ダルトン(p. 208)

 

「自叙伝」の記述を時系列に列記すると、

(1)19672月 原曲の作詞

(2)19679月、10月 録音

(3)1967113日 リリース

(4)19671217日 ポールアンカの会社がパリ、プラザホテルで正式に権利を取得

 

(5)19688月 アンカがシナトラにラスベガスにて曲を提示

(6)19681230日 シナトラが録音

(7)19692月中旬 アルバム『My Way』の残りトラック(「Yesterday」等)を録音

(8)19693月 (シングル:Reprise 0815 / アルバム:Reprise FS 1029)正式リリース

 

もちろん、自伝は公文書ではなく回想録であるため、数十年前の出来事について年月が曖昧になること自体は珍しくない。しかし、日が記載されている日付はおそらく公式記録から転載しているであるから、正確な日付であると考えてよいだろう。

 

さて、では、『マイ・ウェイ』誕生の決定的な契機として描かれている(A)「フロリダの夕食」はいったいいつなのだろうか。

 

「自叙伝」は、こう記述している(注)。

1217日、私はパリのプラザ・ホテルでエディ・バークレーと交渉し、自身の会社スパンカ・ミュージックのための権利を取得した。」

(注)

“On December 17, I negotiated to acquire the rights for my company, Spanka Music, with Eddie Barclay at the Plaza Hotel in Paris.” p.207)。

 

 

権利取得より前に(A)「フロリダでの夕食」があったと仮定すれば、確かに夕食は「1967年のいつか」であって不自然ではない。また、夕食後すぐにパリへ飛んだという記事も散見される。しかし、この流れにはいくつかの疑問がある。そもそもアンカは、いつこの曲を初めて聴いたのか、である。

 

「自叙伝」には次のようにも記されている(注)

「フランクのために曲を書くことになる長く曲がりくねった道のりは1967年に始まった。当時、私はカンヌ近郊の南仏ムージャンで家を借りていたが、ある日、アンや娘たちとプールのそばに座っていたとき、ラジオからその曲が流れてきた。」

「いい曲だった。大ヒットというわけではなかったが、そのメロディーの中に心を惹きつけられる何かを感じた。」

 

(注)

 “The long and winding road to writing a song for Frank began in 1967 when I had rented a house in Mougins, a quaint little town in the south of France near Cannes, and one day sitting by the pool with Anne and my daughters heard this song on the radio.”

“It was okay, it wasn't a huge hit. But I heard something in the melody that grabbed me.” p.207

 

この曲(“Comme d'habitude”)のリリース日は1967113日と明記されており、クロード・フランソワ側の資料でも同様の記載が確認できる。リリース前にラジオで流される可能性は否定できないが、録音日より前に放送されることはあり得ない。したがって、ラジオで流れた時期は、少なくとも録音が行われた196710月以降であったとみるべきである。

以上を踏まえると、可能な時系列は次のようになる。

 

l  113日、曲のリリース 

l  その後1217日までの間にアンカが曲を耳にし、強い印象を受ける 

l  フロリダでの夕食の場で、この曲を活用する構想が生まれる 

l  その直後、パリへ向かい権利を取得した 

 

しかし、この流れには不自然な点がある。 

まず、11月の南フランスで家族とプールサイドにいるという状況は季節的に無理がある。バカンスシーズンではないからである。さらに、リリース直後の段階で「大ヒットではなかった」と評価するのは、113日発売から1217日の交渉まで、わずか数週間しか経っていないため、いかにも早すぎる。

 

また、交渉の場でシナトラに歌わせる構想を伝えたかどうかも不確かである。もしその意図を明かして交渉したなら、出版社側は印税を高く設定する可能性があるし、逆に意図を伏せて交渉した場合は、後に不誠実を理由に問題化する危険も考えられる。アンカが述べるように「簡単に交渉が成立した」とする説明は、当時の音楽出版の慣行からみてもやや楽観的に過ぎる。

 

さらに言えば、クリスマスを直前に控えた12月中旬に、フロリダからパリへ大西洋を渡って電撃的に交渉へ向かうという強行日程や、家族行事を優先するこの時期における異例の契約締結も、不自然さを感じさせる。むしろ、事前に出版社側との交渉が進んでおり、1217日は「最終的な調印の日」であったと考える方が妥当である。

 

しかし、そうだとすると新たな問題が生じる。すなわち、シナトラがアンカに対して曲の制作依頼をほのめかしたという話は、事前に予測できたとは考えにくい点である。もし夕食の場で初めて依頼があったのだとすれば、その直後にパリへ飛び、すでに準備されていた契約書に調印するという流れは、時系列上も実務上も整合性を欠く。したがって、「夕食後すぐにパリへ向かい、権利を取得した」というアンカの語りは、出版ビジネスの慣行や季節要因を踏まえると、現実的には成立しにくいと言わざるを得ない。

以上の点を総合すると、この一連のストーリーには依然として多くの謎が残ると言わざるを得ない。

 

権利取得の後に(A)「フロリダでの夕食」があったと考えるなら、その出来事が1967年であった可能性はきわめて低いと言える。年末はクリスマス休暇であり、特別な事情がない限り、欧米の人々がこの時期に友人を夕食に招くことはほとんどない。家族と過ごすのが通常であるためである。したがって、この夕食の記憶は1967年ではなく、1968年の出来事を取り違えている可能性が十分に考えられる。

 

そうなると、アンカがシナトラに歌わせる確かな見通しもないまま、この異例の取引を強引に進めた理由が不明となる。なぜ成功の保証もない交渉に固執したのか、その動機は依然として大きな謎である。

 

さらに言えば、「自叙伝」はこう述べている。

「私はニューヨークへ戻り、それを引き出しの中に仕舞い込んだ。けれど、そこにあることを忘れた日など一日たりともなかった。それは引き出しの中で脈打ち、私が呼び醒ますその瞬間をじっと待っていたのだ。」

 

「この曲には何か特別なものがある、と直感した。メロディを聴いて、それがとても面白い何かの土台になるような気がしたのだ。果たしてそれが何なのか……?」

 

「インスピレーションは感じていたものの、どう扱えばいいのかまだ分からずにいた。でも、ピアノで『Comme d'habitude』を弾き始めたら、すべてがしっくりとまとまり始めた。そこから曲が本来あるべき姿へと大きく成長していった。ピアノでアレンジを加え、オリジナルのユーロポップ・バージョンとは異なる、しっくりくる雰囲気を生み出せた。ただ、肝心の『フック(印象的なフレーズ)』については、まだ見つけられなかった。」

 

(注)

"He gave me the publishing the right, the right to re-create the song. I went back to New York and put it in a drawer. But I never forgot it was in that drawer—it was in there, palpitating, waiting for the moment I'd awaken it."

 

“I knew there was something special to this song. I heard the melody as a foundation to something very interesting but what?”

 

“It was inspiring to me but l d'habitude" on piano again, and everything came together. Then it re- didn't quite know what to do with it yet. I began playing "Comme ally grew into itself. I transformed it on piano, got the right vibe to it, taking it away from the original Europop version. But I hadn't figured out the hook yet. (p. 207)

 

そして、例の “Sometime in 1967” へとつながり、「フロリダの夕食」の記述が置かれている。もちろん、この配列が実際の出来事の発生順を忠実に反映しているかどうかは定かではない。しかし、アンカが曲の権利を得たのち、その扱いを思案し、ピアノを弾きながら構想を練っていたことは確かである。その後に「フロリダの夕食」があり、そこでシナトラのための歌詞を当てはめようとした、と読むのが自然であり、通常の読者もそのように理解するであろう。

 

その後、ニューヨークに行って作詞の作業を行った。(注)

 

「あの夜のことは決して忘れない。時刻は午前1時を回っていた。嵐が近づいているのを感じた。空気は張り詰め、何かが起きようとする劇的な気配が漂っていた。私はたった一人でピアノに向かい、あのメロディを弾いていた。まるでフランク自身が曲を書いているかのように、彼の魂を憑依させ、あの独特の雰囲気を――予感と、すべてが終わるという覚悟を――自分の中に呼び起こしながら。

“And now the end is near, and so I face the final curtain”

 

あの冒頭の一節が浮かんだ。雨脚が強まる中、偉大な伝説がステージを去り、照明が消えていく……。それはオペラのように壮大で、感情が大きくうねるような瞬間である必要があった。私は夢中でタイプし始めた。技巧のことなど忘れろ、ただ彼が話すように書くんだ、と自分に言い聞かせながら。「Ate it up, spit it out(食らい尽くし、吐き出した)」……。およそ4時間で書き上げ、そこから削ぎ落として、あるべき形へと整えていった。いくつかの選択肢となる行を残しつつ。そうやって私は曲を作り上げていく――積み重ね、書き加え、書き直し、、」

 

そして、『My way』とタイトルをつけ、朝5時に完成してから、ラスベガスにいるシナトラに電話をする。

 

「『マイ・ウェイ』の最終稿をタイプし終えたのは、朝の5時だった。フランクがシーザーズ・パレスにいて、ステージを降り、バーでドン・コスタと酒を飲んでいることは分かっていた。というのも、私もドンと仕事をしていたからだ。そこで私はラスベガスへ飛び、フランクにその曲を聴かせた。『フランク、すごく面白いものがあるんだ』と言ってね。最初に聴かせたときから彼がこの曲を気に入っていることは分かっていたが、彼は常にクールでいたいタイプだったから、口にしたのは『イカれてるな、坊主。やるぞ』という言葉だけだった。だが、彼がそう言うということは、つまり彼が有頂天になっていたということなんだ」

 

(注)

“I'll never forget the might. It's abonn-one in the morning. I know there's a storm moving in, the atmosphere is charged, than's some of drama in the air. I'm all aleme, playing this melody on the piano, wieme it as if Frank were writing it, in the person of Prank, tuming in Sinatra's vibe, a sense of forsbeding and finality, I get that first line, "And now the end is near, and so I face the final curtain The rain is wetti heavier, The great legend is leaving the stage, the lights going out. It needed to be operatie, a big, swelling moment. I start typing like a madman forget the craft, 1 told myself, just write it the way he talke "Ate it up spit it out" I finish it in about four hours, and edit is down to what I think it should be, give or take, a few optional lines. That's the way I do it, building it up, adding, rewriting, etc., and then.” (p. 209

 

“I finished typing my final draft of "My Way" at five A.M. in the morning. I know Frank is at Caesars, I know he's offstage, drinking at the bar and I know he's there with Don Costa, because I'm also work- I'm gonna bring it out." I then flew to Las Vegas in August 1968 and 1 ing with Don, and I say, "Frank I've got something very interesting, played it for Sinatra. I knew Frank loved the song when I originally played it for him but he always wanted to be cool, so all he said was "That's kooky, kid. We're going in." Coming from him, you have to understand, that meant he was ecstatic. “(p. 210)

 

「フロリダでの夕食」の場からすぐに飛行機に乗り、ニューヨークへ向かって午前1時に作詞を始めたという記事も存在する。

定期便のフライトでは時間的に不可能だが、プライベートジェットであれば物理的には実現し得る。しかし、そこまで急いで移動しなければならない理由は見当たらない。

 

これらの記述に基づき、時系列を再整理すると、

 

119672月 原曲の制作

219679月・10月 録音

31967113日 リリース

419671217日 ポール・アンカの会社がパリのプラザ・ホテルにて正式に権利を取得

 

A)「フロリダの夕食」

B)作詞

 

519688月 アンカがラスベガスでシナトラに曲を提示

619681230日 シナトラが録音

719692月中旬 アルバム『My Way』の残りトラック(「Yesterday」等)を録音

819693月 (シングル:Reprise 0815/アルバム:Reprise FS 1029)正式リリース

つまり、

A)「フロリダの夕食」

B)作詞

 

は、19671217日の権利取得と、19688月のラスベガスでの提示の間に挿入される出来事である。

 

ここでもうひとつの謎が生じる。権利取得からシナトラの録音まで、約1年の時間が空いている点である。アンカ自身が英語詞を「5時間で書き上げた」と述べているにもかかわらず、制作過程全体としては不自然に長い期間を要しているように見える。また、前後の出来事については日付が明確に記されているのに対し、この二つの重要なイベント──「フロリダの夕食」と英語詞制作──の時期がまったく記述されていないのは不可解である。単なる記憶の欠落では済まされない印象を与える。

 

この謎を解くためのカギは、彼が獲得した「権利の内容」そのものにあるのではないだろうか。一般には、ポール・アンカが単に「英語の歌詞を作詞する権利」を獲得したと解されがちだが、実際に彼が取得したのは「出版権・出版管理権(Publishing Rights / Sub-publishing Rights)」であった。

 

すなわち、フランスの原曲を『My Way』として英語圏でビジネス化することに関わるほぼすべての権利を取得し、この権利のもとでポール・アンカ自身が英語の歌詞を作成したのである。したがって、例えば後に日本で『マイ・ウェイ』の日本語訳詞を作成し出版する際の権利管理すらも、ポール・アンカの出版社(Spanka Music)が担うことになっている。もちろん、日本のみならず世界中のカラオケで使用された場合の印税も同様である。

 

そしてその権利は、極めて高い確率で「独占的」であり、なおかつ、6ヶ月ないし1年以内という一定の期限内に楽曲として結実しなければ権利が消滅・返還される、という厳密な条件が付与されていた可能性が高い。

 

彼が「わずか1ドルでこの権利を取得した」という点が、さも交渉術や運の良さとして語られているかもしれないが、ビジネスの観点で本当に重要なのは、前払金(アドバンス)=初期費用(イニシャル・コスト)ではなく、間違いなく、将来の印税(ロイヤリティ)に関わる「分配比率」にある。

売上に応じた後払いの印税の分配比率を原権利者(フランス側)に手厚く保証していることで、前払い金(アドバンス)を1ドルという極小リスクに抑えることは、ポール・アンカ側としては、手元のキャッシュリスクを徹底的に排除した財務戦略を取ったに過ぎない。

この『My Way』が世界中で売れることによって、原曲の売り上げ収入をはるかに上回る収益が、フランスの原権利者側に入ったことは間違いない。まさに、合理的な取引(ディール)だったのである。

 

アドバンス(前払い金)をわずか1ドルとし、将来の印税分配のみに依存するこのような契約は、当時のポピュラー音楽出版における業界慣習に照らしても、原権利者側にとっては極めてリスクの高い、破格かつ異例の取引であった。なぜなら、万が一楽曲が世に出なければフランス側は一銭も手にできないからである。フランス側がこの異例のリスクを呑んだ背景には、ふたつの可能性が考えられる。もし権利取得の前に「フロリダの夕食」があったのだとすれば、アンカが提示した『シナトラ級の大物に歌わせる』という決定的な約束が効力を発揮したはずである。逆にそれがまだなかったのだとすれば、1年以内にリリースできなければ権利が失効・返還されるという、原権利者を守る厳格なタイムリミット条件が存在したと見るのが自然である。

 

そう考えると、権利取得から録音に至るプロセスの中で、シナトラと交渉し、曲制作の内示(夕食時)を得て、試作品が出来上がったことを発注者であるシナトラに伝えたという「行動のフットプリント(足跡)」を残すことこそが、この2つのイベント(夕食と作詞)に課された重要な役割であったと推測できる。なぜ残す必要があるかといえば、このかなり異例な取引の足元をすくわれるリスク、つまりフランス側やシナトラ側との間でどのような権利主張が生じても対応できる用意をしておくためではないだろうか。

 

ではなぜ、日付をあいまいにしたのかは言わずもがなであろう。のちに第三者の行動履歴と照合された際、自らが構築した「美しい神話(ストーリー)」の矛盾を指摘されるリスクを回避するためだとするのは、うがちすぎであろうか。

 

だからこそ、権利取得からの1年間という空白期には、当事者間での極めてリアルで生々しい条件交渉が行われていたと見るのが自然なのである。

 

次に浮かび上がる疑問は、「フロリダの夕食」をめぐる証言の偏りである。不思議なことに、ポール・アンカは自叙伝の中でこの出来事を詳細に描写しているが、ウィル・フリードワルド、キティ・ケリー、ピーター・ハミルといった代表的な研究者・伝記作家の著作、さらに日本の三具保夫の著書(注)を確認しても、この夕食への言及はまったくまったく見当たらないことである。

 

(注)

三具保夫「シナトラ Frank Sinatra:My Way of Life」駒草出版, 2007.

 

もちろん、メディアの記事は数多く存在するものの、そのほとんどアンカへの取材をもとにしており、実質的にはアンカ側の証言に依拠している。つまり、この出来事について詳しく語っている一次的な資料は、現状ではアンカの自叙伝などアンカ側の情報だけといってよいだろう。

 

さらに言えば、シナトラ側の『マイ・ウエイ』についての文章も実に少ないし、ポールアンカとシナトラとの交流関係に関する記述も、また皆無なのである。そこに何があったのか、あるいはなかったのか、検証すべき重要な論点がある。

 

では、そもそもアンカの「自叙伝」とはどのような性格の書物なのか。単なるタレントの思い付きの書き物なのだろうか。確認しておく必要がある。本書はポール・アンカと作家デヴィッド・ダルトンによる共著であり、文章はほぼ一貫して一人称の「I」で語られている。そのため、読者はアンカ自身が直接語っているかのような印象を受ける。一方で、共著者のダルトンが独自の取材や考察を前面に押し出している箇所はほとんどない。

 

一般に著名人の自叙伝では、ゴーストライターが執筆を担い、本人名義で刊行される例も少なくない。それに比べれば、本書でダルトンが共著者として明記されていることは、彼がローリング・ストーン誌の編集者を務めた経験を持つ著名な作家であることを踏まえれば、不自然ではない。しかし、実際の叙述のスタイルを見る限り、本書は第三者による客観的な伝記というより、アンカ自身の記憶と語りを中心に構成された回想録として読むべきだろう。

 

したがって、本書の内容を全面的に疑う必要はないものの、少なくともアンカ自身の記憶や解釈、意図が強く反映されている可能性を、常に念頭に置いたほうがよい。実際、時系列や出来事の順序については曖昧な記述が散見される。

 

もちろん、アンカが意図的に事実を歪めたと断定する根拠はない。しかし、人間の記憶は時間の経過とともに整理され、意味付けされるものである。特に『マイ・ウェイ』のような歴史的大ヒット曲については、後年になって複数の出来事や印象が一つの物語として再構成された可能性も否定できない。

 

さらに、アンカの自叙伝には、劇的な構成を備えた印象的なエピソードが少なくない。それらが事実に基づいていたとしても、後年の回想のなかで出来事同士が整理・統合され、おそらく共著者のダルトンのアイディアかもしれないが、物語として編集されている可能性については検証の余地がある。

 

こうした点を踏まえると、「フロリダの夕食」はただちに否定されるべきものではないものの、無条件に事実として受け入れることもまた慎重であるべきだろう。その後に見るように、シナトラ側の伝記や研究書における不自然なまでの沈黙もまた、このエピソードの検証をさらに難しくしているのである。

 

さらに不可解なのは、『マイ・ウェイ』という楽曲そのものの扱いである。一般に、フランク・シナトラの代表曲を挙げるよう求められれば、多くの人が真っ先に『マイ・ウェイ』を思い浮かべるだろう。ところが、シナトラ研究の主要な著者たちは、この曲に対して驚くほど冷淡である。

 

シナトラに関する代表的な著書を書いたウィラ・フリードワルドは、次のように評する(注)。

 

「『マイ・ウェイ』は、単調に繰り返されるリズムと極めてシンプルな旋律構成を持っていたため、子供向けのポップ・ミュージックに慣れ親しんだ耳にもすんなりと受け入れられるものだった(カントリー・ウエスタン調の雰囲気にもしっくりくるのは、そのためでもある。『セ・ラ・ゲール(戦争だから仕方ないさ)、相棒』といった具合に)。それから2シーズン後、『パピー・ラブ』の作詞・作曲者であるポール・アンカが、英語の歌詞とタイトルを考案した。アンカは、『マイ・ウェイ』のアルバムに収録された『イエスタデイ』の作者であるレノンやマッカートニーとは違って、そうした軽薄なジャンルにおいてさえ大した存在とは言えなかったが、彼のキャリアの初期から仕事を共にしていたドン・コスタが、このティーン・アイドルと『会長(ザ・チェアマン・オブ・ザ・ボード)』ことシナトラとをつなぐ役割を果たしたのである。」

 

「幸いなことに、196812月に録音された同名シングルが発売され始めた19693月に制作されたアルバム『マイ・ウェイ(My Way)』には、より優れた楽曲が収録されている。

『ウォッチ・ホワット・ハプンズ(Watch What Happens)』や『フォー・ワンス・イン・マイ・ライフ(For Once in My Life)』・・・しかし、『サイクルズ(Cycles)』や『カンパニー(Company)』といった作品と比較すれば、少なくとも何らかの「刺激」や「高揚感」を伴う試みを行おうとしたシナトラの姿勢は評価に値するだろう。」

 

「しかし、シナトラは『マイ・ウェイ』を意図的に自己言及的なテクストとして扱っている。そこでは、ポール・アンカが「ザ・チェアマン・オブ・ザ・ボード(シナトラの愛称)」を念頭に置いてこのフランスのシャンソンに英語の歌詞を書き上げたという経緯が、十全に活かされているのである。」

 

“French songs, "My Way" has the kind of droning rhythm and minimal melodic content that made it acceptable to kiddie- pop ears (which also explains why they seem so appropriate with coun- try-western settings; "c'est la guerre, pardners"). Two seasons later. "Puppy Love" poet Paul Anka, who unlike Lennon and McCartney (authors of "Yesterday" on the My Way album), was only a lightweight even in that shallow area, devised an English lyric and title. Don Costa who had worked with Anka at the very start of his career, served as the connection between the teen idol and the Chairman of the Board.”(p. 446)

 

“Fortunately, there's better stuff on My Way, an album recorded in March 1969, when the single of that song, recorded the previous December, began selling. Costa's uptempos, even on worthwhile songs like "Watch What Happens" and "For Once in My Life" (a song that has truly left its Smokey Robinson roots behind), are problematic, as we'll explore in the postretirement period, but in light of Cycles and Com- pany, Sinatra deserves credit for at least trying to do something with a little excitement to it.” (p.436)

 

“Yet Sinatra conspicuously treats "My Way as a deliberately reflexive text, taking full advantage of how Paul Anka con- cocted the English lyrics to this French chanson with the Chairman of the Board in mind.”(p. 446)

 

つまり、ポール・アンカも『マイ・ウェイ』という曲そのものも、特筆すべきものではなく、むしろシナトラがこの曲を「自分自身の人生を語る歌」として巧みに歌い上げた点に価値がある、と述べているのである。さらに言えば、アルバムに収められた他の曲の方がはるかに優れているという評価さえ示している。言い換えると、『マイ・ウェイ』は大仰で大ざっぱなポップスにすぎず、アンカはフランスの原曲に英語詞を付しただけである、とする立場である。そして最終的に、「アルバム『My Way』の真価は、『For Once in My Life』などの優れたトラックを力強く歌い上げたシナトラの表現力にこそある」と結論づけている。

 

三具保夫も、こう述べる。

「ところで『マイ・ウエイ』だが、この曲は必ずと言っていいほど、ポップ界の巨匠ポール・アンカの作品と紹介される。・・・正確にいうなら原曲はシャンソンで、ポール・アンカが書いたのは英詩である。」(164頁)

「また、LP『マイ・ウエイ』の紹介ページには「マイ・ウエイが入っているから上げたわけではない。他の9曲が実に素晴らしいのだ」(237頁)

 

 

さらに興味深いのは、ピーター・ハミルがこの件についてまったく触れていない点である(注)。

ハミルはジャーナリストとしてシナトラと直接交流し、友人として多くの対話を重ねた人物である。それにもかかわらず、彼の著書にはポール・アンカや「マイ・ウェイ」に関する記述が一切見当たらない。これはなぜなのだろうか。

「シナトラがこの話題を語りたがらなかった」「気に入らなかった」という解釈は、たしかに成り立つ。しかし、それだけでは十分に説明しきれない。むしろ、この話題がシナトラ自身にとって、生涯を通じて繰り返し語るほど重要なテーマではなかった可能性を示唆していると考えるべきであろう。

これは必ずしも、シナトラが意図的に話題を避けたことを意味するわけではない。単に、彼の人生や芸術観の中で「マイ・ウェイ」誕生の経緯が特別な位置を占めていなかった可能性がある。少なくとも、シナトラ自身がこのテーマを積極的に語り続けた形跡が乏しいことは確かである。

 

ウィル・フリードワルド、三具保夫、ハメルという三人は、いわばシナトラの熱心な信奉者であり、代表的なインナーサークルのメンバーと位置づけても差し支えない存在である。この点を踏まえるなら、彼らが示す評価や見解は、単なる個別の意見ではなく、シナトラを中心とするインナーサークルに共有された共通認識を反映していると考えてよいのではないだろうか。

 

キティ・ケリーは、シナトラの「インナー(側近)」ではないものの、執拗なまでに取材を重ねたジャーナリストであることは間違いない。彼女は、映画『セメントの女』の撮影でシナトラがフロリダに滞在していた時期の出来事について、多くのエピソードを紹介している。シナトラ本人への直接取材こそ実現しなかったが、トニー・ベネット夫人の証言をはじめ、関係者への広範な取材を通じて、当時の行動や周辺事情を詳細に描き出している(注)。

 

しかし、そのような綿密な取材に基づく著作であるにもかかわらず、「フロリダの夕食」やポール・アンカとの会食に関する記述はまったく見当たらない。関係者がその出来事を語らなかったのか、あるいはケリー自身がそのエピソードを重要視しなかったのかは判然としない。

 

もちろん、このことが「夕食が存在しなかった」ことを意味するわけではない。単にケリーがその出来事を取材対象として選ばなかっただけかもしれない。また、彼女の視点から見れば、ポール・アンカという人物は、シナトラの人生を描くうえで中心的な位置を占める存在ではなかった可能性もある。

(注)

Kitty Kelley(キティ・ケリー), His Way: The Unauthorized Biography of Frank Sinatra,

Bantam, 1983(柴田訳『ヒズ・ウェイ』文藝春秋, 1989, 434頁).

 

しかしながら、アンカ自身が語るように、「フロリダの夕食」が『マイ・ウェイ』誕生の直接的な契機となるほど重要な出来事だったのだとすれば、その痕跡がシナトラ関連の文献にまったく見当たらないという事実は、やはり大きな謎と言わざるを得ない。

             

深まる謎

「フロリダの夕食」が成立する背景として一般に語られるのは、シナトラとポール・アンカの長年にわたる交流と深い信頼関係である。アンカは若い頃からシナトラに憧れ、キャリアを積み重ねる中でラスベガスのショーで共演するようになり、やがて家族ぐるみで付き合う間柄になったとされる。

そのような強い信頼関係があったからこそ、シナトラは自身の悩みや将来への不安をアンカに打ち明け、アンカはその思いに応える形で『マイ・ウェイ』を書き上げた──この物語に私たちが惹かれるのも、単なるヒット曲誕生の秘話ではなく、人と人との絆から生まれた作品だという文脈があるからだろう。

 

しかし、こうした関係性を裏付ける情報の多くが、実はアンカ側から発信されたものに偏っていることが分かってきた。本来であれば、その真偽はシナトラ自身がどう語っているかによって明確になるはずである。

そこで、シナトラの周囲を取り巻く側近たち(インナー・サークル)の証言はひとまず置き、シナトラ本人がこの関係をどのように語っていたのかを検証すべきであろう。

 

シナトラのステージでは、曲間にトークを挟み、彼の人生に関わった人物の名を挙げることが多かった。感謝を述べる場合もあれば、軽いジョークの材料とする場合もある。サミー・デイヴィス Jr.やディーン・マーティンはもちろん、サミー・カーン、ヴァン・ヒューゼン、ネルソン・リドル、ドン・コスタといった裏方の音楽家の名が登場することも珍しくない。

 

しかし、私の知る限り、ポール・アンカの名がステージ上で語られる場面はほとんど存在しない。『マイ・ウェイ』のリリース前後を含めても同様である。たとえば1974年のマディソン・スクエア・ガーデンでのライブでは、曲の前のお決まりの、

 

 “We will now do the national anthem, but you needn’t rise.” 

 「これより国歌を演奏いたします。ただし、ご起立には及びません」

 

と紹介するが、アンカの名は出てこない。どこかのライブで “Song by Paul Anka” とだけ述べた記憶はあるものの、それも簡単な言及にとどまる。

 

日本の演歌界では、北島三郎が付き人だった山本譲二やギター伴奏者だったの弦哲也の成功を同じステージで称える場面をしばしば目にする。もしアンカが語るように、ラスベガスなどでシナトラの身の回りを世話し、さらに『マイ・ウェイ』を提供してシナトラの再起を助けたのであれば、ステージ上でアンカを称えたり、曲の紹介で感謝を述べたりしても不自然ではない。シナトラはそうした振る舞いをしない人物であったのだろうか。

 

さらに、アンカが語るほど両家の交流が深かったのであれば、その痕跡が別の場面にも残っていてよいはずである。しかし、フランク・シナトラ Jr.誘拐事件後の関係者の証言や報道、1998年のシナトラの葬儀の参列者記録などを確認しても、アンカの存在は少なくとも目立った形では現れていない。

 

もちろん、これらの事実だけで両者の親交を否定することはできない。親しい関係であっても、公の場で必ず語られるとは限らないからである。しかし一方で、「家族ぐるみの付き合い」「極めて親密な関係」というアンカ側の説明を、そのまま受け入れてよいのかという疑問は残る。

 

結局のところ、私たちの前にあるのは、アンカが語る濃密な交流の物語と、それを積極的には裏付けないシナトラ側の沈黙とのあいだに横たわる、少なからぬ距離である。このギャップは何を意味するのか。いまだに大きな謎として残っているのである。

 

実際、後年のシナトラは『マイ・ウェイ』に対して複雑な感情を抱いていたと伝えられている。大衆からは代表曲として求められ続けた一方で、本人は必ずしも同曲を自身の最高傑作とみなしていなかったという証言も存在する。娘のティナ・シナトラによれば、父は『マイ・ウェイ』を「ひどく嫌っていた」「うんざりしていた」と語っており、この曲の自己賞賛的で自分に酔ったような性質(selfserving and selfindulgent)を嫌悪していたという。

 

しかし、シナトラの人生を振り返れば、彼自身が「自分はこんな立派な人間ではない」と感じ、自己嫌悪に陥ることがあったとしても不思議ではない。したがって、歌いたくない時期があったとしても十分に理解できる話である。こうした発言を字句通りに受け取った一部のシナトラ・インナー・サークルたちが、「ほら、シナトラはこの曲が嫌いだった」と得意げに語ることも、ある意味では自然な反応であろう。

 

しかし一方で、聴衆にとって『マイ・ウェイ』が「自分らしく生きる賛歌」として深い感動を与えてきたことも確かである。曲が持つ象徴性は、シナトラ個人の感情とは別に、広く共有されてきたのである。

 

次の疑問は、1979年のライブにおける『マイ・ウェイ』の歌唱前、ポール・アンカは次のように語っている(注)ことである。

 

「さて、次の曲は何年も前に、美しいフランスのメロディをもとに私が書いた曲です。

元々は自分自身で録音するつもりだったのですが、フランク・シナトラが私の歌を聞いて『自分が先に録音したい』と言ったのです。だから彼にこの曲を譲りました。フランク・シナトラに“ノー”とは言えませんからね(笑)

これは彼の曲であり、そしてこれまで信じ続けてくれた皆さんのための曲でもあります。」

 

このステージでの語りは、アンカが書籍やインタビューで一貫して述べてきた「シナトラが引退をほのめかし、頼まれて(あるいは彼のために)書いた」という経緯とは明らかに矛盾している。もちろん、ライブにおけるトークは観客を楽しませるためのエンターテインメントの一部であり、厳密な史実の再現が第一義ではない。特にシナトラという巨大な存在を引き合いに出す場合、「自分が歌うはずだった曲をシナトラに横取りされた」というコミカルな構図は、観客の笑いを誘う効果が大きい。

 

実際、この語りは「帝王シナトラに逆らえなかった若きアンカ」というユーモラスな物語を形成し、観客は大いに笑っている。シナトラの“マフィア的”なパブリックイメージをジョークのオチとして用いることも、ステージ特有の脚色として理解できる。いわば、たわいのない笑い話である。

 

しかしながら、「自分が歌うはずだった曲をシナトラに持っていかれた」という語りは、もしシナトラ本人が耳にした場合、どのように受け止めたであろうか。軽く笑い飛ばした可能性もあれば、名声を得たアンカが自分を揶揄していると感じ、快く思わなかった可能性もある。いずれにせよ、両者の関係に微妙なすきま風を生じさせてもおかしくない出来事である。

 

こうした点を踏まえると、アンカが語る「フロリダでの夕食」が実際にあったとしても、それが本当に『マイ・ウェイ』誕生の決定的瞬間であったのかどうかは、慎重に検討する余地がある。むしろ、その出来事の“歴史的意味づけ”は、後年になって徐々に強調されていった可能性も否定しきれない。

 

そして何より興味深いのは、この物語を最も詳細に語るアンカ側と、ほとんど語ろうとしないシナトラ側とのあいだに存在する大きな温度差である。この乖離は、両者の関係をめぐる理解に少なからぬ謎を投げかけているのである。

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