第10章 『マイ・ウエイ』誕生の物語(1)サンレモにて
1970〜80年代のころ、東京のライブハウスによく通っていました。新橋の「ジャンク」や「スイング」、六本木の「ミスティ」や「バランタイン」など、どの店にもその店ならではの空気があって、夜ごと、行くたびに違う表情を見せてくれたものです。なかでも、青山の「ロブロイ」は今でも忘れられません。
階段を降りると、穴倉みたいな小さな地下の空間があって、ライブなど始まりそうもない気配が漂っていました。ママの遠藤さんが「そろそろ始めてよ」と演奏者にぶっきらぼうに声をかけると、ピアノの音が静かに流れ出す。お客が自分ひとりだけ、なんて夜もありました。
そのうち、かまやつひろしが「やあやあ」と顔を出し、ピアニストが「ヨー」と返す。「ベースが遅れている」と怒鳴る声が響くこともあって、客を楽しませようというより、演奏者たちの素の空気がそのまま漂っているような場所でした。そんな独特の緊張感の中で、胸がどきどきしながら耳をそばだてて、ビールを飲むよりも、音に身をゆだねていたのを思い出します。坂本龍一や矢野顕子も来ていたそうですが、会うことはありませんでした。
あの頃に感じていた「異世界のようなライブ空間」は、今ではほとんど姿を消してしまいました。武道館のジャズフェスティバルに足を運んだことがありますが、遠くのステージを大型スクリーン越しに眺めた瞬間、ふっと「ここはもう、自分がジャズを聴く場所ではないな」と思ってしまい、それ以来、自然と足が遠のいていきました。
聴きたい音楽を、聴きたい人が、自分の意思でお金を払い、その場で音楽と出会う――そんな「真実の瞬間」は、巨大な商業主義が当たり前になった今の時代にあって、どれほど貴重な意味を持っていたのだろうかと考えてしまいます。おそらくフランク・シナトラも抱えていた悩みは、きっとこのような感覚に通じるものだったのではないかと、ふと思ったりします。
成功の美談に
『マイ・ウェイ』誕生の背景には、まるでハリウッド映画のように美しく、完璧な“成功美談”が語り継がれてきた。
もともとこの曲は、フランスで発表された「Comme d'habitude(コム・ダビチュード=いつものように)」という楽曲であり、愛が冷めきった恋人同士の静かな倦怠感の歌だった。このメロディーを南フランスで偶然耳にしたポール・アンカは、「この旋律には世界を動かす特別な力がある」と直感し、すぐさま英語詞による再構築を決意する。実際にこの曲を聴いてみたが、ゆったりした出だしが、印象的だった。
折しも、フロリダの夕食の場で、アンカはシナトラ自身の口から、「この時代の変化に疲れ果てた。もう音楽活動をやめ、引退したい」と、いう衝撃的な言葉を聞かされる。
帝王のあまりにも深い苦悩と引き際を吐露されたアンカは、強く心を揺さぶられる。「もしシナトラが自らの波瀾万丈な人生を振り返り、最後の決意を歌うとしたらどう書くだろうか」と思いを巡らせたアンカは、一晩で「And now, the end is near...(今、終わりが近づいている)」から始まる印象的な歌詞を書き上げた。
人生に後悔はない
失敗も成功もすべて己で引き受ける
私は私の道を歩んだ。
という、力強い自負と誇りに満ちた人生讃歌へと見事に昇華された。
『マイ・ウェイ』は、ポピュラー音楽史において美しく完成された神話として語り継がれてきた作品である。私たちはこのストーリーを繰り返し聞かされてきた。
しかし、これまで本書で述べてきたように、『マイ・ウェイ』の成立、とりわけ大きな影響を与えたとされる「フロリダの夕食」には、いくつもの不可解な謎が残されている。それはまた、『マイ・ウェイ』という作品の誕生、そのもののに関わる大きな謎でもある。
夕食そのものは実際にあった可能性が高いものの、そこでどのような会話が交わされたのかについては、依然として不明である。これらの疑問を、確たる証拠によってすべて解き明かすことはおそらく難しい。しかし、状況証拠を手がかりに、その背後にあったであろうやりとりを推測してみることは許されるであろう。
(1)1967年2月 原曲の作詞
(2)1967年9月・10月 録音
(3)1967年11月3日 リリース
(4)1967年12月17日 ポール・アンカの会社がパリのプラザ・ホテルで正式に権利を取得
(5)1968年8月 アンカがラスベガスでシナトラに曲を提示
(6)1968年12月30日 シナトラがハリウッドで録音
(7)1969年2月中旬 アルバム『My Way』の残りトラック(「Yesterday」など)を録音
(8)1969年3月 シングル(Reprise
0815)およびアルバム(Reprise FS 1029)正式リリース
サンレモにて
1967年12月30日、ポール・アンカがフランスの楽曲の出版権を獲得した事実は疑いない。この背景には、1960年代前半のビートルズを中心とする「英国の侵攻」によって、アメリカの音楽市場がヨーロッパ発の才能や楽曲に対して開かれていったという状況がある。欧州、すなわち海外の楽曲が商業的価値を持ち得るという確かな実感が業界内で共有され始めた時期でもあり、アンカもその流れにを象徴するものであった。つまり、一見すると意外な決断のように見えるが、実際にはアメリカの音楽ビジネスがヨーロッパ発の新たな音楽シーズをとらえて活動していったに違いない。アをとらえて活動していったに違いない。メリカの音楽ビジネスがヨーロッパ発の新たな音楽シーズを掘り当てた瞬間でもあったのである。
その萌芽は1958年にすでに現れていた。イタリアのサンレモ音楽祭で優勝したドメニコ・モドゥーニョの「ヴォラーレ(Volare)」が、イタリア語の楽曲としては異例の形でアメリカ市場に受け入れられ、ビルボード全米1位を獲得したのである。この曲はミリオンセラーとなり、1959年の第1回グラミー賞では「最優秀レコード賞」と「最優秀歌曲賞」の二部門を制した。サンレモは本来イタリア国内のイベントにすぎなかったが、「ヴォラーレ」の世界的成功によって国際的な注目を集める存在へと変貌した。
アメリカでは、1958年にディーン・マーティンが全米12位のヒットを記録し、続いて1960年にはボビー・ライデルがロックンロール調のカバーで全米4位を獲得した。こうした競作により、「ヴォラーレ」は単なる一過性の外国曲ではなく、アメリカのポップ文化に深く根を下ろす楽曲として受容された。この成功こそが、後の欧州音楽の「輸入ビジネス」拡大を予兆する最初の明確な事例であり、非英語圏の楽曲がアメリカ市場で本格的に成功し得ることを示したのである。
ポール・アンカは、すでに、1962年にRCA Victorに移籍した際にABC-Paramount 時代の原盤を25万ドルで買い戻し、自らの音楽出版社 Spanka Music を設立し、音楽は「作品」であると同時に「資産」であることを認識して、原盤・著作権管理をビジネスとして開始した。
従って、サンレモで展開した戦略は、アメリカの歌手として欧州に進出したという単なる活動だけではなく、欧州の原曲を見定めて権利を確保し、英語圏へ展開するための体系的なビジネスモデルとして成立していた。1960年代のサンレモ音楽祭は世界中の音楽出版社やプロデューサーが集まる国際的な楽曲市場であり、アンカはこの場を欧州のメロディを直接仕入れるための重要な拠点として活用した。彼はアメリカ国内にとどまらず欧州ツアーを重ね、現地の音楽出版社との関係を築きながら、1964年のサンレモに自ら出場することで欧州の音楽ビジネスの内部に深く入り込んでいった。
アンカは、イタリア語の『Ogni Volta』をイタリア人歌手とペアで歌い、イタリア国内で100万枚以上の売上を記録する大ヒットを生み出した。この経験により、欧州の原曲が持つ国際的な商業価値を実感し、現地で自ら歌うことで権利交渉の主導権を握れることを学んだ。アンカはこの曲の英語圏での可能性をすぐに見抜き、英語詞をつけて世界展開するための権利を確保した。こうした成功によって、欧州原曲を買い付け、英語詞でローカライズし、大物アーティストやレコード会社を通じて全米へ配給するというビジネスモデルを確立した。
このモデルは、映画業界が国際映画祭で配給権を獲得する構造とよく似ており、アンカは音楽界におけるディストリビューターとしての役割を果たしていた。したがって、1967年に『Comme d’habitude』を見出し、『My Way』として世界に送り出すことができたのは偶然ではなく、すでにサンレモで確立していた欧州楽曲の買い付けと世界配給の仕組みを実践していたことの延長線上にある必然的な成果であった。
ポール・アンカがサンレモ音楽祭の舞台に立ち、ヨーロッパのメロディを積極的に探し求めていた時期に、日本の若い歌手が同じステージに参加したことは、国際的な音楽交流が広がり始めた象徴的な出来事であった。もしアンカが伊東ゆかりの『恋する瞳』を買い付けていたなら、その後、さらに興味深い展開を見せていたに違いない。
当時高校生だった私は、ラジオから流れてきた1964年の大賞曲、ジリオラ・チンクェッティの『夢みる想い』、そして翌年のボビー・ソロ『君に涙とほほえみを』に耳を傾けていた記憶が、今も懐かしくよみがえる。
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